2014年は1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックから50年の節目にあたります。東京オリンピックは一部の競技を周辺各県で開催しており、藤沢市もヨット競技の会場となりました。
藤沢市が競技会場になった理由は、江の島にヨットハーバーが建設されたことにあります。オリンピックは国や県のレベルで準備が進められるものですが、会場都市の重責を担う藤沢市においても周到な準備を経て、ヨット競技を成功に導きました。
昨年、2020年の東京オリンピックの開催が決まりましたが、藤沢市でも1964年の実績をもとに大会を支援する体制作りを進めています。今回の展示では東京オリンピックにおける市民の熱気と熱意を感じ取っていただくとともに、藤沢市における歴史的意義について考えてみたいと思います。
最後に、貴重な資料をご提供いただいた市民や関係機関の方々に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
2014年(平成26年)10月14日
藤沢市文書館長
湘南港築港とオリンピック誘致
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片瀬東浜は昭和20年代に浸食がすすみ、海水浴場としての存続が危ぶまれました。県は、浸食を止めるため対岸の江の島に防波堤を建設することとし、あわせて観光港としての機能を持たせることを計画します。
この企画中に東京オリンピックの開催が決まりました。県の築港計画がオリンピック委員会の目に止まり、江の島を会場に選定したことで、湘南港が猛スピードで建設されました。
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江の島地区開発調査報告書
昭和36年
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県作成の報告書です。湘南港建設の効果について検討しています。(文書館文書410)
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東京大島江の島大島輸送比較図
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湘南港は、当初、伊豆諸島へのターミナルとして計画されました。東京から江の島経由で大島に向かうと、運賃も時間も節約できると見込まれました。(「湘南港建設計画に関する文書」昭和35A6:1:1)
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江の島ヨットハーバー建設
昭和38年2月頃
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湘南港は、片瀬東浜を外海より到達する波からの浸食から守る防波堤の役割を兼ねているのがわかります。 (引出写真 江95)
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湘南港完工式
昭和39年8月18日
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湘南港は、3年の工期で竣工しました。この日は神事やテープカットのほか、大島航路の新造船披露式もあり、桟橋は見物客で賑わいました。 (アルバムNo.248)
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世界女性群像噴水池
昭和39年10月
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オリンピック開催記念に企業の寄付で設置されたもので、中央の弁天を東洋と西洋、古代と現代の女性像4体が取り囲むことで五輪を表現しています。 (「広報アルバム」No.23)
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オリンピックを迎えるために
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藤沢市は会場都市であることから、競技運営の成功に責任を負っていました。選手や外国人観光客に日本、そして藤沢に対して好印象を持ってもらうためには、市民の協力が不可欠でした。
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中央図書館のオリンピック展
昭和39年9月8~15日
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中央図書館(現・南市民図書館)のこけら落しを兼ね、オリンピック啓蒙活動の一環として、文部省や日本体育協会と共同で開催されました。 (アルバムNo.248)
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国際ウェイトリフティング競技神奈川県大会
昭和38年10月19日
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プレオリンピックの一環として、秩父宮記念体育館で行われた競技会です。藤沢市にとってもオリンピック運営のノウハウを学ぶ場となりました。 (アルバムNo.248)
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オリンピック国民運動藤沢市協力会発会式
昭和39年3月30日
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オリンピック国民運動藤沢市協力委員会の発会式では、駐日記者による外国人接遇の講習会も行われました。 (「広報アルバム」No.24)
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藤沢市市民憲章
昭和39年7月1日
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オリンピックを迎えて世界の目が藤沢に向けられるにあたり、住みよい美しい街にするために制定されました。 (「服部清道文書」No.チラシ126)
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ステキなまちづくり総ぐるみ運動
昭和39年9-10月
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オリンピック準備の総仕上げとして、市民憲章の精神をもとに行われた市民運動の要綱です。(服部清道家文書)
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市民憲章パレード出発式
昭和39年8月18日
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ステキなまちづくり総ぐるみ運動の一環として、市民憲章制定を記念した鼓笛隊パレードが行われました。写真は出発前の金子市長の訓示です。 (「広報アルバム」No.9)
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みんなで迎えるオリンピックデー
1964年6月23日
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藤沢市民の期待感を盛り上げるため、オリンピック憲章制定記念日に秩父宮記念体育館で開かれました。写真は中学生代表による決意文朗読です。(アルバムNo.248)
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聖火リレーと分火リレー
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聖火は日本に9月に到着し、正副走者3名と随走者20名で構成された聖火隊により全国でリレーされました。藤沢市でも多くの若者が走者として参加しました。
また、国立競技場に灯された聖火は江の島にも分火されました。江の島へは相模工業学園に空輸された後、ふたたび藤沢市内でリレーが行われ、江の島の聖火台にともされました。
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オリンピック東京大会聖火リレー藤沢市内コース図
昭和39年10月7日
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170
全国をリレーされた聖火は、10月7日に藤沢市に入り、旧東海道と江の島道を1時間かけて走りぬけました。(文書館文書5315_1)
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オリンピック東京大会国内聖火リレー藤沢市内並びに分火リレー実施要綱
1964年
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176
藤沢市における聖火リレーと分火リレーの実施マニュアルです。ルートや陣形などが細かく定められています。 (鈴木恒夫氏蔵)
240
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聖火隊の走行規定
1964年
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320
聖火隊は12km/hで走行するよう指示があり、また、隊列を整えるため走行間隔やトーチや旗の持ち方に細かい規定が定められていました。 (鈴木恒夫氏蔵)
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聖火隊委嘱状
昭和39年8月1日
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171
聖火隊は、正副走者は16~20歳の男性、随走者については中学生から20歳までの男女に委嘱されました。(鈴木恒夫氏蔵)
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オリンピック、聖火リレー
昭和39年10月7日
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320
藤沢市役所前に設けられた中継点に向かう随走者で、先頭向かって左側は後に市長になる鈴木恒夫氏です。
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国内聖火リレー藤沢市通過 藤沢市最後のコース
昭和39年10月7日
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聖火ランナーはトーチを持つ正走者1名と予備走者である副走者2名、五輪旗を持つ随走者20名で構成されました。(広報アルバム23)
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国内聖火リレー藤沢市通過 藤沢市最後のコース
昭和39年10月7日
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320
パトカーに誘導されて江の島を出る聖火隊です。神奈川県は走行のタイミングにあわせて道路を全面通行止めにして聖火リレーを行いました。(「広報アルバム」No.23)
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分火リレー藤沢市内コース図
昭和39年10月11日
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分火とは、国立競技場に灯る聖火を各競技会場にわけることで、相模工業学園(現湘南工科大)に空輸された聖火は江の島へリレーされました。(文書館文書5315_2)
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聖火は再びやってきた 到着
昭和39年10月11日
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320
国立競技場から分火された聖火は、ランタンに入れられ相模工業学園(現・湘南工科大学)まで空輸されました。この後、トーチに着火されて出発します。 (「広報アルバム」No.23)
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聖火台に点火 感激のこの一瞬
昭和39年10月11日
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320
17時半、江の島の聖火台に聖火が点火されました。最終走者が船でヨットハーバーを横断する演出がありました。 (「広報アルバム」No.23)
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ヨット競技会場として
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ヨット競技は競技海域に円形に設置されたブイの間を決められた順序と回数で航海します。1日1回づつ計7レースを行い、上位6回分の合計得点を競いました。
ヨット競技の選手村が大磯にあったことから、選手と市民の交流は限られたものでしたが、市主催のレセプションが行われ、市内も飾り付けられて歓迎ムードが盛り上がりました。
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レセプション招待状
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日本人向けのレセプション招待状です。 (「レセプションの記録」昭和39B2:0)
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市長主催レセプション「歓迎のあいさつ」
昭和39年10月11日
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聖火点火後の国際慣例に従い、外国選手や役員を対象とする開催都市主催の懇親会が行われました。写真は檀上であいさつする当時の金子市長。 (「広報アルバム」No.23)
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スピーチ原稿
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レセプションにおいて当時の金子市長が読んだ英文スピーチの原稿です。 (「レセプションの記録」昭和39B2:0)
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ヨット競技海域図
昭和39年10月
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ヨット競技は種目ごとに指定の海域で実施されました。競技海域には16区画の漁業権が設定されており、操業と競技が重ならないように調整されました。(文書館文書5315_3)
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ヨット競技風景
昭和39年10月
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ヨット競技は、当時オリンピック唯一の海上種目でした。東京オリンピックはヨット全種目を同一会場で実施した初のオリンピックです。 (「広報アルバム」No.23)
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歓迎体制の整った会場周辺 藤沢銀座通り
1964年10月
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藤沢市全域でモデル商店を選定するなど、オリンピック開催地にふさわしい装飾やサービスを競い合いました。 (「広報アルバム」No.23)
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江の島ヨットハーバーのパンフレット
1964年
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ヨットハーバーは湘南港竣工とともに開設されました。藤沢はオリンピックの会場となったことで、「海と藤沢」のイメージを定着させました。(押小路家文書No.箱5-1)
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