藤沢市は2010年の10月1日をもって市制施行70周年を迎えます。藤沢市は「自立した衛星都市」を目標に都市計画に取り組み、今では人口40万人を擁する湘南の中核都市に発展しましたが、約10年おきに転機が訪れており、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
たとえば、戦争の影響はその最たるものですし、高度経済成長における首都圏の膨張は、藤沢市の性格を観光都市から工業都市、そして商業都市や住宅都市へと激しく変貌させることになりました。
今回の展示は、それぞれ10年毎に見られる時代的特徴を、資料を通じて紹介しようとするものです。そのために展示は7章構成をとりますが、もちろん、各年代は10年で割り切れるものではないので、中心となる年代を軸に、それぞれの章が完結するように構成しております。資料や写真を通じて、藤沢市の歴史を感じ取っていただければ幸いです。
最後になりますが、貴重な資料をご提供いただいた市民や関係機関の方々に、この場を借りて厚くお礼申しあげます。
2010年9月27日
藤沢市文書館長
昭和15年、当時の皇紀2600年記念行事の一つとして、藤沢市が誕生しました。母体となった藤沢町は周辺町村の合併をあわせた市制施行を計画していましたが、各町村との協議に難航し、編入が遅れました。
戦時中の藤沢市は予想される本土決戦を前に、飛行隊の設置など準備が進められました。幸い戦時の被害は軽いもので済みましたが、むしろ辻堂演習場が連合軍に接収された戦後は、米軍の演習に連動した被害に悩まされるようになります。
ところで、この時期の政治は流動的なものでした。市制施工時の混乱を鎮めるため、金子小一郎が市長に就任するも公職追放となり、再度の混乱の末、助役の伊沢十郎が市長になります。悪化する一方の財政に悩まされ続けるなか、市役所を現在地に移設します。
この時期の藤沢は都市計画の方針が定まっておらず、民間と協力しながら江の島周辺の観光開発を行い、やがて東洋のマイアミとうたわれるようになりました。そこで、昭和34年にはマイアミ市と姉妹都市提携を結ぶとともに、海山交歓会を通じて松本市とも提携します。
また市内中心部でも、北部合併を記念して藤まつりが開催されます。このイベントは回数を重ね、やがて今の市民まつりに繋がっていきます。
昭和30年には国民体育大会が神奈川で開催されますが、藤沢はメイン会場の一つとなります。また、県は湘南観光港を計画しますが、折良く東京オリンピックの会場に選ばれ、急ピッチで建設が進められます。完成後はヨットハーバーが整備されるとともに、伊豆や大島に定期航路が開設されました。
昭和27年に市長に復帰した金子小一郎は財政赤字の克服を図りながら昭和31年に総合年計画を発表し、昭和34年度より順次着工します。その特徴は首都圏近郊における自立した衛星都市の建設にあり、住宅開発と工場誘致を併行して推し進めるものでした。これらの効果で藤沢市の人口は20万人に急増し、強化された財政力をテコにインフラ整備を進めました。
昭和30年に現在の北部地域を市域に加えます。また、懸案であった、米軍辻堂演習場も昭和34年に国に返還され、藤沢市の戦後処理にとりあえずの区切りが付きますが、跡地利用をめぐって県と市の思惑がかみ合わず問題になります。また急激な開発は各種公害や住民の反発をも引き起こし、特に激しい水質汚濁で湘南海岸のイメージは徐々に悪化していきます。
開発行政に対する批判を背景に昭和47年に革新陣営の葉山峻が市長に当選すると、市民自治を合い言葉に福祉や環境の充実を目指します。また、文化行政にも力を入れ、市町村レベルでは全国初の文書館や市民オペラの定例開催も実現します。
ところで、この時代の藤沢市は商業都市として急速に発展します。藤沢駅南口の区画整理が完成するとデパートや大型スーパーが続々と進出し、湘南地区のショッピングセンターの地位を確立しますが、一方で過当競争に悩まされ、遅れて着工した北口再開発の中核テナントをめぐり市と業者が対立する事態に陥ります。総仕上げとなる藤沢駅橋上化は昭和55年のことですが、その間のデパートの出店調整こそ、前期葉山市政最大の課題となります。
昭和30年に編入された北部地域は当初純農村地域であり、近郊農地としての発展が期待されていましたが、自動車工場の進出が画期となって工業地としての開発が始まります。また、1970年代を通じた湘南ライフタウンの造成でニュータウンとしても発展し、昭和55年に人口を30万人を突破します。しかし市の施設は南部に偏った配置であったことから不満が高まります。
そのなかで、湘南台駅は北部区画整理事業にもない昭和41年に設置されたものですが、早い段階で横浜方面からの鉄道建設が計画されていたことから中核都市への発展が予想されました。そのため、南北格差是正を兼ね、湘南台は副都心として整備されることになります。また、豊かな税収をもとに福祉施設の充実がはかられたのもこの時代のことです。
県は昭和60年、陳腐化が目立ち始めた湘南海岸のテコ入れとして湘南なぎさプランを策定しますが、最東部となる片瀬海岸の大規模開発に対して環境面の懸念から反対意見が高まります。結果、計画が大幅に縮小された反面、岩屋の再開が好評であったことから観光地としての江の島が再評価されるなど、世間の関心は「ソフト」の充実に移りつつありました。
ところで、バブルの崩壊とともに藤沢市も税収が落ち込みますが、平成8年に山本捷雄が市長に当選すると行政の効率化に着手します。その切り札とされたのがIT化の推進であり、やがて藤沢市役所は情報化の先進自治体としてその名をしられるようになります。
世紀が変わっても日本経済の回復の兆しは見えず、また、少子高齢化の進行など社会構造はいびつなものに変化していきました。これを受けて各種産業の改変が進められますが、藤沢市でも工場撤退が相次ぐなど、情勢と無関係ではありませんでした。人口は40万を突破し、住宅地としての評価はなお高いものがありますが、税収が落ち込み市政運営は厳しさを増します。平成14年には湘南市構想も検討されましたが、根強い反対で白紙にもどります。
こうした情勢下における将来像の模索としてあげられるのが、江の島の再開発を中心とする観光の活性化であり、あるいは市内各大学との連携や研究所の誘致による開発拠点としての生き残りです。大島航路再開運動や湘南C-Xはそうした試みの一つであります。
藤沢市の誕生と戦時の混乱ー1940年代(昭和15年~24年)を中心にー
観光都市藤沢ー1950年代(昭和25年~34年)を中心に
開発の時代と金子市政ー1960年代(昭和35年~44年)を中心にー
藤沢駅南北開発とオーバー・ストア問題ー1970年代(昭和45~54年)を中心に
北部開発と文化施設の充実ー1980年代(昭和55年~平成元年)を中心に
「ソフト」の時代ー1990年代(平成2年~11年)を中心に
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