江戸時代中期、湘南海岸に砲術調練場と言う江戸幕府の軍事演習場が設置されました。明治以降は日本海軍の横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となり、戦後は連合国に接収され米軍は茅ヶ崎演習場、日本側では辻堂演習場と呼びました。
江戸幕府が設定した区域は片瀬川から相模川にいたる湘南海岸一帯におよぶ広大なものでしたが、明治時代に払い下げが進み、最終的に現在の藤沢市辻堂西海岸と茅ヶ崎市汐見台が軍事演習場として固定されました。そして1959(昭和34)年に米軍から国に返還されたのです。
本年12月に辻堂駅が開設100年を迎えることから、辻堂地区が注目を集めています。そこで、文書館では辻堂海岸を中心とする軍事演習場の利用実態、返還後の跡地利用計画とその実現について、そして江戸時代は「鉄砲場」、海軍・米軍時代は「演習場」と呼んだ軍事演習場と地元住民とのかかわりについて、主に当館の収蔵資料から考えてみたいと思います。
最後に、貴重な資料をご提供いただいた市民の皆様や関係機関の方々に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
2016年(平成28年)11月14日
藤沢市文書館長
鉄砲場の開設
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江戸幕府が鉄砲場を開設したのは享保13(1728)年のことです。この地に設置した理由は定かでありませんが、少なくとも幕末には幕府直轄の公儀林である「御林」に指定されていました。
鉄砲場は片瀬川から相模川にいたる湘南海岸一帯に広がります。遠距離射撃や近距離射撃など、用途に応じて場所が使い分けられていました。
演習にあたり、周辺の村々には役負担が課せられ、農業や漁業、居住などにさまざまな悪影響を与えています。幕府は村々の不満に対し、演習を数年おきに実施することで対処しました。これにより、演習を行わない期間は遊休地となるため、鉄砲場内の開墾が進められました。
5966
藤沢沿革考
明治29年5月
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316
鉄砲場見回役を務めた藤沢宿の堀内家がまとめた史書です。江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』には鉄砲場の開設について記載がなく、本書から開設時期がわかります。(ID146_稿1_Y4)
240
5961
鎌倉大筒御鉄砲について回状
天保13年閏3月7日
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320
天保13年の鉄砲演習計画について、各村に触下した文書です。4月から7月にかけての農繁期に何組にも渡り演習したことがわかります。 (ID23_稿3_A34)
78
5960
御鉄砲様方御役の件
寛政6年11月
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320
鉄砲場の周辺諸村が役負担にあえぐ様子を記した文書です。鉄砲組が羽鳥村と折戸村に宿泊し、辻堂村は御茶番を担当したことがわかります。(ID23_稿1_状B15)
203
5968
御鉄砲場内の家作住居願
天保10年5月
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320
片瀬村江の島道出口浜の百姓4名が家を修理したところ、鉄砲場であるとの理由で追放を命じられ、困窮していることが記されています。 (ID319東大法学部法制史資料室所蔵文書_124)
133
5970
迅速図にみる鉄砲場周辺図
1882年
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320
幕末の土地利用をとどめた明治初期の地形図です。赤枠部分が開墾地で、広大な鉄砲場のなかで部分的に開墾されている様子がわかります。 (市川勝典氏加筆作成、地図1353)
232
1537
(辻堂村御鉄砲丁打場絵図)
安政5
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255
幕末の鉄砲場を記録した絵図です。図は町打場で、地蔵袋の打小屋を起点に、1町(図では「丁」)ごとに計測用の杭が打たれている様子がわかります。 (ID5_稿5_14)
240
1540
(辻堂鉄砲場絵図 部分)
(幕末維新ヵ)
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320
鉄砲場内で部分的に開墾されている様子が描かれています。図には地蔵袋、大やげん、弥平田、勘久、作兵衛山の字名が記録されています。 (ID5_未刊行1_89)
225
海軍の時代と辻堂
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維新後、官有地となった「御林」は徐々に払い下げられました。藤沢市域では、鵠沼が別荘地として開発される一方で、辻堂海岸約50町については、地主が海軍に「大砲発射試験場」として年575円で貸し出すことになりました。
海軍の射撃演習は、沿岸に深刻な漁業被害をもたらします。また、地主も所有権が侵害されていることに不満を持ちました。最終的には海軍が現在の辻堂西海岸と茅ヶ崎市汐見台を買収して陸戦演習のみ行うことになりました。
演習に参加する海軍兵は辻堂の農家に下宿しました。戦前の辻堂は海軍の下宿によって貴重な現金収入を得ており、地域と軍隊でさまざまな交流が生まれました。
5964
承諾書
明治31年3月24日
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174
明治時代に三觜家が入手した辻堂海岸約50町を年575円の安値で海軍が借り上げ、「大砲発射試験場」として使用していました。 (ID23_稿13_2_66)
240
5963
三十五年度中射撃度数調
明治35年
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320
1902年の辻堂演習場使用状況です。横須賀鎮守府の水雷団や海兵団、軍艦水兵が小銃から大砲までの実弾演習を行っていたことがわかります。(ID23_稿3_E29)
236
5940
絵葉書「辻堂海軍用地に於ける演習」
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320
海軍は、当初、小銃による戦闘訓練だけでなく、大砲の射撃演習も辻堂で実施していました。(文書館文書5496_01)
206
5954
辻堂演習場で使われた鉄板
2016年8月5日
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320
海軍が日露戦争で使用した「下瀬火薬」の試験も辻堂で行われました。標的に使用されたと言われる鉄板が辻堂と鵠沼で保存されています。(photo_satuei20160805_01)
240
5955
辻堂演習場で使われた鉄板
2016年10月30日
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320
海軍が日露戦争で使用した「下瀬火薬」の試験も辻堂で行われました。標的に使用されたと言われる鉄板が辻堂と鵠沼で保存されています。(photo_satuei20161030_08)
240
5965
上申書(砲台位置換被下度ニ付)
明治中期
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320
海軍の射撃演習に伴い、長期の休漁や漁船の被弾など、深刻な漁業被害が起こり、漁民たちは砲台の位置変更を求めました。(ID23_稿13_3_809)
125
5962
横須賀鎮守府御使用地之義ニ付請願
明治36年6月20日
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320
三觜家は、辻堂海岸の土地が軍事演習場の存在で所有権が侵害されていると不満を述べ、海軍に演習中止か土地使用料の支払を求めました。 (ID23_稿3_E29)
235
5969
辻堂演習場における演習風景
昭和18年4月
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320
海軍は3ヶ月の新兵教育の総仕上げとして、3~4日かけて辻堂演習場で模擬戦を実施しました。(ID591_2_13)
210
5958
四等水兵修業記念
昭和5年11月
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320
横須賀海兵団の修業記念アルバムです。(文書館文書5458)
229
5959
辻堂演習(其の二)
昭和5年11月
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320
頁は辻堂での記録で、辻堂元町3丁目の宝泉寺は演習中の集合場所でした。 (文書館文書5458)
129
米軍時代と返還運動
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敗戦後、辻堂演習場は米軍に接収され、射撃演習や上陸訓練場として使用されるようになります。
米軍の演習は旧日本軍とは比較にならない装備を用いた大規模なもので、周辺住民は爆音や治安の悪化に悩まされました。えぼし岩の上端が欠けたり、不漁や操業規制で漁業に甚大な影響を与えたうえ、軍事演習場が固定化される可能性も取りざたされます。
一方で、片瀬・鵠沼海岸が「東洋のマイアミビーチ」と呼ばれ、辻堂も宅地化が進むなか、軍事演習場の存在は人々に違和感を感じさせ、返還は地域住民の悲願となりました。藤沢市は県や茅ヶ崎市と協調しながら返還運動を展開することになります。
5957
米軍の立入禁止看板
昭和21年
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320
敗戦後、辻堂演習場は連合国に接収され、引き続き米軍の軍事演習場として使用されることになりました。 (ID54福地誠一氏撮影写真_アルバム87_p17上)
226
5967
茅ヶ崎海岸使用条件
昭和20年代
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320
米軍と結ばれた辻堂演習場(米軍は茅ヶ崎演習場と呼ぶ)の使用条件です。演習内容や接収除外区域が設定され、また、えぼし岩を標的にしないこととされました。 (ID185金子むつみ家文書_未刊行4_256)
225
1137
辻堂演習場における米軍の上陸演習
1954年5月4日
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306
舟艇を用いた米軍の上陸訓練です。米軍の演習は旧日本軍とは比較にならない装備を用いた大規模なものでした。(アルバム7「アメリカ国立公文書写真」_p31)
240
5971
通常の操業区域及び制限区域の見取図
1952年
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169
米軍の演習水域と漁業権の関係を示した図です。辻堂沖の舟艇通行路や姥島(えぼし岩)にかかる三角形の射撃海域により、ほとんどの海域で操業規制がかかりました。 (出典:『茅ヶ崎市史現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍』(1995)p297より市川勝典氏着色。地図1354)
240
5941
演習場使用概況
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273
最近5年間の演習内容と回数をまとめた表です。朝鮮戦争勃発後に回数が増加したこと、1953(昭和28)年以降は射撃演習から上陸演習に変更され、自衛隊も使用を開始したことがわかります。(「特別委員会に関する文書」昭和27-33:R2:4)
240
5949
辻堂演習地をオネストジョン演習及び基地化することに対する請願
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320
米軍は新たな演習や施設の建設を次々と計画し、軍事演習場の固定化が取りざたされます。市は県や茅ヶ崎市と協調しながら返還運動を進めました。 (「請願・陳情書」昭和30:R3:2)
186
「辻堂西海岸」へ
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県や藤沢・茅ヶ崎両市の粘り強い交渉もあり、1959年6月25日に辻堂演習場が米軍から国に返還されました。
藤沢市は跡地の全面払下げを求めて開発計画をまとめますが、国や県、住宅公団も跡地の開発を希望し、関係機関や自治体で調整が図られました。この結果、藤沢市には学校用地と下水処理場用地が割り当てられます。
1964年に辻堂団地や高砂小学校、南部下水処理場が完成し、1967年5月の住居表示変更で藤沢市域の旧演習場は辻堂西海岸と名づけられました。一方、県が建設することになった公園についてはサイエンスランド問題を経て、1971年にようやく辻堂海浜公園が完成したのです。
5942
辻堂演習場ノ返還ニツイテ
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170
米軍から辻堂演習場の返還が決定したことについて、横浜調達局から藤沢市に宛てた通知文の写しです。(「特別委員会に関する文書」昭和27-33:R2:4)
240
1138
辻堂演習場の返還
1956年6月25日
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296
県や藤沢・茅ヶ崎両市の粘り強い交渉もあり、この日、ついに辻堂演習場は国に返還されました。 (アルバム7「アメリカ国立公文書写真」_p3上)
240
5944
元辻堂演習場第1次取得地
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320
藤沢市は1958(昭和33)年、先に接収解除された北部3万坪のなかの8,000坪を国から学校用地として払下げを受けますが、無断で耕作されていたため離作交渉が長引き、建設まで時間を要しました。(「元辻堂演習場内国有地第1次取得に関する文書」昭和35:I1:2)
211
5943
辻堂演習場跡地利用区分図
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320
藤沢市が辻堂演習場の接収解除を前に、全面払下げを前提としてまとめた跡地利用計画です。国際会議場または競技場の誘致が目玉でした。(「辻堂演習地開発促進特別委員会に関する文書」昭和34-37:R2:2)
229
5945
辻堂演習地の払下について
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320
藤沢市は辻堂演習場跡地を静穏な地にしたいとの希望があり、下水処理場と中学校用地を確保のうえ、住宅地と公立工業高校用地も要求しました。(「元辻堂演習場国有地第2次取得に関する文書」昭和36:I1:2)
227
5946
辻堂演習場払下配分計画図
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320
辻堂演習場跡地は県や藤沢・茅ヶ崎両市、国や住宅公団で図のように配分されますが、藤沢市は市境に割り当てられた中学校用地について、大蔵省や住宅公団と交換交渉を行います。(「元辻堂演習場国有地第2次取得に関する文書」昭和36:I1:2)
206
5950
相模工業学園
1964年以前
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320
藤沢市が求めていた公立工業高校は私立で設置することとなり、1961(昭和36)年に相模工業学園として開校します。1963(昭和38)年には大学も開校しました。(広報アルバム9_p28_6)
215
5951
建設中の辻堂団地
1964年
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320
住宅公団が辻堂演習場跡地に建設した辻堂団地は、59棟約2,200戸からなる県内屈指のマンモス団地として1964年10月に落成します。 (広報アルバム9_p24_1)
220
5952
建設中の高砂小学校
1964年
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320
離作交渉で難航していた高砂小学校の建設でしたが、辻堂団地の建設にあわせ、住宅公団の寄付工事として建設が進められました。(広報アルバム9_p31_5)
218
5953
建設中の南部下水処理場
1964年1月
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320
藤沢市にとって、下水処理場の用地確保は必要不可欠でした。処理場は半地下式で建設され、地上は公園としても利用されています。 (広報アルバム9_p29_8)
218
5947
高砂第二小(仮称)学区案
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320
辻堂地区の人口増加は想定を上回り、特に高砂小学校の過密が問題になりました。そのため、辻堂団地を分断する形で新たに浜見小学校の学区が設定されます。 (「学区編成に関する文書」昭和44:Q2:1)
180
5948
藤沢市議会3月定例会会議録
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320
藤沢市は娯楽施設である「サイエンスランド」の建設計画について、住環境の悪化を恐れて反対し、県に対してあくまで公園の建設を求めました。 (行政資料R2_1_33)
165
おわりに
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現在では大きな公園のある住宅地として評価されている辻堂西海岸には、江戸時代中期から半世紀前まで軍事演習場が存在し、周辺住民の利用が制限された土地でした。
辻堂地区にとって軍事演習場の存在による不利益は大きく、土地開発が行えないうえ、射撃演習では漁業被害をもたらしました。一方で海軍は辻堂地区に現金収入をもたらすなど、戦前は一概に否定的な存在とは言い切れない部分もありました。
1959(昭和34)年に米軍から返還されたことで全域において地元の利用が可能になり、市や県などの手で学校や公園、団地が建設されて公共の福祉に寄与しました。
現在も時代の要請にあわせ、なぎさモールの建設など、辻堂西海岸は少しずつ姿を変えています。
5956
なぎさモール
2016年10月30日
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320
辻堂団地の一部を撤去した跡に建設されたショッピングモールで、2016年2月にオープンしました。
240