藤沢市の沿岸は、1964(昭和39)年の東京オリンピックのヨット競技の開催を契機に、湘南藤沢は海の街とのイメージが全国に定着していき、2020年には2度目のオリンピックを迎えようとしています。
そこで藤沢市文書館では、藤沢と海との関わりの歴史を、港をキーワードにして振り返ることを試みました。海や港に関わる記録は残りづらい傾向にありますが、中世から漁業に留まらない港を拠点とした海上交通の歴史が確認されました。
特に近世については、2015(平成27)年に片瀬地区の個人宅から海運関係の資料が発見され、2017(平成29)年まで調査が行われたことから、片瀬地区に所在した「片瀬湊」の様子を明らかにすることができました。
資料をひもとくと、港は現代にいたるまでその役割を変化させていきます。その変化は何でしょうか。当館が収蔵する資料を中心に港の歴史をご紹介します。観覧の皆様が、過去の港の歴史を振り返り、これからの姿に思いを馳せていただければ幸いです。
最後になりましたが、資料の公開につきましてご許可くださった所蔵者の皆様と、ご協力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。
2020(令和2)年12月
藤沢市文書館長
この展示は、2019年(平成31年)1月9日から3月1日にかけて藤沢市文書館で開催した同名の展示をウェブページ用に再構成したものです。実際に展示した資料のうち掲示しないものもあり、また関連する資料を新たに掲示したものもあります。展示の流れの変更はありません。
港のはじまりー中世の港ー
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中世の藤沢に港が存在することを、直接に記録した史料はありません。しかし、いくつかの資料を組み合わせることで、藤沢にも港があったと考えられます。 例えば、中世に成立した絵画資料を見ると、江の島の周辺には小舟が描かれており、竿で漕ぐ小舟に数人の人と荷物を載せて江の島と片瀬を往来する様子が描かれています(『一遍聖絵』など)。
また、鎌倉時代には、鎌倉の南東(現材木座沖)に「和賀江嶋」を築港するなど(『吾妻鑑』)、海上交通が盛んでした。そのなかで江の島を通過する船は、江島明神に供物を奉納する習慣がありました(『海道記』)。
他に、これらに先立つ記録である『天養記』からは、伊勢神宮の荘園である大庭御厨の港があったことが考えられます。それによると、伊介神社(鵠沼の皇大神宮、ただし諸説あります)周辺には大庭御厨の役人が集住して生産物などが集められていました。そして1144(天養元)年に源義朝らが、その集められた生産物を収奪し、役人らにも暴行を加えたとあります。
実際に、大庭御厨内の現皇大神宮周辺の古地形を復元すると港の適地が確認できますので、伊介神社周辺に集められた大庭御厨の生産物は、引地川に設けた港から伊勢神宮に送られたことが想像されます。
ただし、引地川の水深を考えると小型の船が用いられた可能性が高く、江の島西浦などの大型船が停泊可能な港で荷物を積みかえて、伊勢神宮に向かったと思われます。
7302
江島縁起 第2巻 江野を往来する人々
16世紀前半頃
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320
江島縁起は、江の島の創成、江島神社の創始、信仰の中心である弁財天の霊験を説いた物語。第2巻は江の島の創成が描かれています。この場面は、江野(現在の片瀬周辺)を往来する人々の様子です。*所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
101
7303
江島縁起 第2巻 江の島を造成する天女
16世紀前半頃
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320
津村の海上に雲が湧いて天女(弁才天)が出現し、付き従う四天王や童子が岩を運で江の島を造成しています。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
101
7304
江島縁起 第2巻 人を喰らう悪行をやめると天女に誓う五頭龍
16世紀前半頃
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320
天女を恋い慕って江の島に渡った五頭龍(ごずりゅう)が、人を喰らう悪行をやめると誓う場面。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
106
7329
江島縁起 第4巻 弘法大師が津村湊を出て、江の島に渡る場面
16世紀前半頃
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320
弘法大師が津村湊を出て江の島に渡る場面で、背景に船で漁をする男性と、岩場で海藻を採る女性が描かれています。この絵巻が作成された16世紀前半頃に、江の島周辺で漁や採集が盛んであったことがわかります。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
100
7306
大庭御厨鵠沼郷模式図
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169
大庭御厨の鵠沼郷は、大庭御厨の神人(役人)などが集住し、伊勢神宮や熊野神宮に収める生産物が集められたことが『天養記』からわかります。大量の物資の伊勢への輸送は船を用いたと思われ、その港の候補地が小字の清水の周辺です。引地川が屈曲して淵を作る港の適地で、伊介神社とも直線道で結ばれて荷物の運搬の便も良い場所です。引地川の旧流路は、地質図と標高から復元したものです。
240
8105
大庭御厨鵠沼郷推定地地形図
原図1882(明治15)年7月
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大庭御厨鵠沼郷推定地の地形図で、模式図の元の地図の一つです。小字を赤字で記しました。皇大神宮から、港の推定地である小字清水まで、直線の道路が伸びているのがわかります(点線の部分)。河川改修前の引地川は蛇行し、両岸に田や湿地が広がっていることから、旧流路が推測されます。(一財)日本地図センター複製「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図564藤沢宿」を加工。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8106
大庭御厨鵠沼郷推定地航空写真
2016(平成28)年
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大庭御厨鵠沼郷推定地の現在の様子です。港の推定地点は、皇大神宮から引地川方面へ向かう道が、IR東海道線と交差する付近と思われます。赤文字は小字(地名)です。
240
7307
天養記年表
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173
大庭御厨は、現在の藤沢市と茅ヶ崎市の南部に広がる、伊勢神宮の荘園です。平(鎌倉)景正が荒野を開発し、免税の特権を得るため、伊勢恒吉を預所として1117(永久5)年に寄進して成立しました。
大庭御厨は、免税の特権は国司によって認められる国免荘でした。そのため、国司が着任するごとに申請をする必要がありました。『天養記』はこの経過の中で作成された古文書をまとめたものです。
240
港の発展ー近世の港ー
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近世(江戸時代)の藤沢の港の資料には、絵図が残されています。そこには、江の島西浦に「船掛場」があり、境川河口に片瀬湊の「荷物揚場」がみられます。
この時代になると、江の島西浦が大型船の着場で、片瀬湊と江の島西浦までの荷物の運搬は小型船が担っていたことがはっきりと確認できます。
片瀬湊へ集められた物資として、まず年貢米が挙げられます。江戸時代の前・中期には、藤沢宿周辺の複数の村の年貢米を集めて「江嶋浦」で船に積み江戸へ向かいました。船には年貢米を供出した村々の名主のうち、代表の名主が乗って年貢米の管理を行いました。万が一の年貢米の補償も、同乗する名主の役割でした。江戸時代の後期になると、年貢の運搬を片瀬村の船主が行い、荷物も補償するようになります。
船には、2~3名乗りの小型のものの他に、100~300石の規模のものもありました。片瀬湊を入出港して物資を運搬したのは小型の船ですが、片瀬の船主が所有した船には大き目な「廻船」が含まれます。
幕末には、年貢米の他に大豆・麦などの雑穀や木材が出荷され、肥料や酒・塩などが入荷したと記録されています。片瀬湊は相模湾内を結ぶ商品流通の拠点の一つでした。
一方、片瀬湊が設けられた境川の河口付近の流路は、1773(安永2)年の絵図に現在の流路が描かれていることから、それより以前に流路が付け替えられたことがわかります。この工事により、「寅新田」と呼ばれる水田が開発され、また片瀬湊の荷揚場も、これ以降の整備と思われます。
7308
片瀬村耕地・荷物揚場等絵図
江戸時代後期ヵ
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320
絵図には、江の島西浦と片瀬湊が記されています。片瀬湊は河口側から馬喰橋近くに移動しています。港には、片瀬の治右衛門の他に藤沢宿の船主の納屋があります。
135
7309
片瀬村耕地・荷物揚場等絵図トレース図
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320
片瀬村耕地・荷物揚場等絵図トレース図です。
140
7326
相中留恩記略 巻16 片瀬村本蓮寺
1839(天保10)年
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320
本蓮寺付近の風景。片瀬川(境川)に帆船が3艘、その他多くの小舟が見え、片瀬湊と思われる。相中留恩記略は、峯渡内村名主の福原高峰が企画・編纂した、相模国の地誌。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
237
7310
覚(年貢米江戸廻送のこと)
1697(元禄10)年11月
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320
藤沢周辺の村々の年貢米は、「江嶋浦」で船に積まれ、江戸に送られました。船には代表の名主が乗って年貢米の管理を行いました。万が一の年貢米の補償も、同乗する名主の役割でした。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
80
7311
船積証文之事
1803(享和3)年正月
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320
船主で片瀬村の治右衛門が作成した荷主の稲荷・大庭・羽鳥各村の名主に渡した誓約書。船主が3村の年貢米の江戸へ運搬と納入を請け負い、米が濡れたりした時には荷物の補償も行うとあります。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
192
7328
運賃覚
江戸時代後期ヵ
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320
藤沢宿の穀物商(「穀屋」)が取り決めた運賃覚。米・大麦・小麦・大豆・小豆・蕎麦・塩・糠などが運搬されたこと、また目的地としては、江戸・浦賀・清水・伊豆・神奈川の湊であったことがわかります。
73
7312
覚(明王丸新造代金之内)
1846(弘化3) ヵ未年5月晦日
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320
片瀬村の治右衛門が、江戸深川の船大工であった茂七に、明王丸を新しく築造する代金の一部を支払った領収書です。
223
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売渡廻船証文之事
1857(安政4)巳年正月16日
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304
片瀬村の治右衛門が、駿河国(現静岡県)の廻船問屋から、200石積みの「弁才造」の廻船を購入した売買契約書です。
240
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明王丸絵図
時期未詳
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320
板に治(次)右衛門の所有する明王丸の設計図が記されています。板図ともいいます。治(次)右衛門の子孫の家に伝わったものです。明王丸は大坂に向かう途中に難破したとの言い伝えがあります。
86
7315
片瀬川流路変更締切地点絵図
江戸時代中期頃作成の写ヵ
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165
片瀬川(境川)の河口の流路は、洲鼻通りより津村よりに流れていたことがわかりました。今の山本橋周辺を締切って、現在の境川の流路を作ったと思われます。
過去の片瀬川河口は、砂浜にいく筋も流路を変える氾濫原であったと思われます。その状況下、片瀬川をせき止め、流路を西よりに変える工事がなされたことがこの絵図からわかりました。
240
7316
片瀬川流路変更締切地点絵図トレース図
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169
片瀬川流路変更締切地点絵図のトレース図です
240
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片瀬村絵図
江戸時代後期ヵ
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320
境川の流路が変更後の片瀬村の絵図です。
旧河川の氾濫原が「寅新田」と呼ばれる耕作地に開墾されたことがわかります。
また、「玉蔵院」など、今は存在しない寺院が描かれています。
160
引き継がれる港、創られる港ー近代から現代へー
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藤沢で漁業の拠点としての役割を持つ港は、江の島、片瀬、鵠沼、辻堂がありました。江戸時代には、漁場の境界をめぐってたびたび訴訟が起きましたが、特に1768(明和5)年から始まった片瀬村と津村・腰越村の訴訟は、評定所という幕府の最高判決機関で審議されるものでした。この判決により浜の境界が決定すると同時に、「沖猟」が津村・腰越村、「地引網猟」が片瀬村に振り分けられました。同じく広く砂浜を持つ鵠沼・辻堂とともに片瀬の地引網漁は近代以降も引き継がれました。一方で、江の島は海岸が岩場のため、鯛などの一本釣りとエビや海藻などの採取が盛んでした。
江の島西浦と片瀬湊が近世まで担っていた流通の拠点としての役割は、1887(明治20)年の藤沢駅開設に象徴される鉄道の発達や道路網の整備により、徐々に衰退していきます。
1958(昭和33)年、江の島付近の海岸浸食への対策として防潮堤の築造にあわせて、観光開発を狙った「観光港」の建設が神奈川県により計画されました。「観光港」の機能としては、ヨットハーバーや大島・下田などへ観光船の就航などが期待されました。1964(昭和39)年に開催する東京オリンピック・ヨット競技の会場となったことから、「観光港」の建設は急加速しました。
こうして流通拠点でもない、漁業の拠点だけでもない「湘南港」は、観光の拠点としての「新しい港」が創られました。
7320
片瀬の地引網
1948(昭和23)年
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316
片瀬の地引網の様子を描いた油絵です。
作者の丸木俊は、原爆投下直後の広島で、夫の丸木位里とともに救護活動を行った経験から、原爆の絵を描き続けました。この絵は、丸木夫妻が1948(昭和23)年から数年間片瀬に居住したことから、描いたものです。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
7139
江の島片瀬川
(戦前)
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320
周囲に点在する1~2人乗りの船と比較して大型の船が、片瀬川(境川)に係留しています。
205
7325
船鑑札
1910(明治43)年
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156
鎌倉郡役所が発行した漁船の鑑札。漁船は郡役所で管理されていました。
鑑札には、船の大きさ、所有者、常時の係留場所が記されています。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
7321
相模国鎌倉郡片瀬村明細帳(写)
1870(明治3)年11月
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285
この明細帳が片瀬村から神奈川県に提出された明治3年には、片瀬村には浜船が12艘、荷積船が8艘所属していたことがわかります。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
7322
大正14年神奈川県漁村調査 川口村漁業組合
1925(大正14)年
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320
1925(大正14)年に神奈川県が実施した漁村調査のうち、川口村漁業組合への調査結果をまとめたもの。
川口村漁業組合の調査結果には、片瀬と江の島が合算されています。江の島の磯で取れたえびやあわびの売価が大きかったこと、所属する漁船の数が鵠沼や辻堂と比較して多かったことがわかります。
226
7323
大正14年神奈川県漁村調査 鵠沼漁業組合
1925(大正14)年
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320
1925(大正14)年に神奈川県が実施した漁村調査のうち、川口村漁業組合への調査結果をまとめたもの。
鵠沼漁業組合では、辻堂と同じく地引網漁が中心でした。
226
7324
大正14年神奈川県漁村調査 辻堂漁業組合
1925(大正14)年
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320
1925(大正14)年に神奈川県が実施した漁村調査のうち、川口村漁業組合への調査結果をまとめたもの。
辻堂漁業組合では、鵠沼と同じく地引網漁が中心でした。
226
8109
湘南港築港前の江の島
2016(平成28)年
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265
1954(昭和29)年に、神奈川県により撮影された空中写真の一部。築港前の江の島東浦の様子がわかります。※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
6777
建設が進む湘南港
(昭和38年1月)
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320
湘南港の築港工事は、約5万坪の埋め立て造成、ヨットハーバーの建設、自動車専用橋の架橋からなります。
228
4209
湘南港空撮 全景
昭和39年
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320
完成した湘南港の全景です。
ヨットハーバー、クラブハウスと同時に、漁港(写真右)も整備されました。
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オリンピック前、江の島の様子
昭和39年10月
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320
オリンピック開催直前の湘南港の様子です。
防波堤に、参加各国の国旗が掲揚されています。
206
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大島航路のさくら丸
1964年8月
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320
大島航路は湘南港の完成とともに、大島観光のために開設された航路です。最盛期の昭和42年には年間16万人の利用客がありましたが、昭和49年1月16日をもって廃止されます。
220
おわりに
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港について、当館収蔵資料を中心にその歴史を見ていきました。
中世・近世の港に特徴的なのは、藤沢周辺の税を集積し、船に乗せて運搬することにあります。近世においては、税にとどまらず、藤沢周辺で産出される物資が「片瀬湊」に集積して、相模湾・相模灘やさらに遠方の港に運ばれ、また各地の荷物が「片瀬湊」に運び込まれました。
漁業に関する港は、片瀬村、江の島、鵠沼村、辻堂村、にありました。近代においても、漁業組合を設立し、船を以って漁業が行われました。
一方、物資の集積・運搬の拠点としての港は、鉄道や道路網の整備によりしだいに役割を終えていきます。
1960(昭和35)年、新たな港として、「湘南港」の建設が着工されます。この港は「観光港」として計画された、新しい港でした。
過去において藤沢は、港を通じて遠い地域とつながっていました。つながり方も物の流れから、観光やマリンスポーツを通じた人々の交流へと変化しています。
海に面する藤沢市は、将来どのような港を構築し、どのように世界と結びつくのでしょうか。今回の展示が、皆様の考えるきっかけとなれば、幸いです。