藤沢市文書館は、藤沢市域に残された様々な資料を収集・保存しております。それらの資料をご覧いただく機会として収蔵資料展を開催しており、今回は善行地域と大庭地域の街づくりを取り上げました。
善行地域と大庭地域は、相互に隣接した地域であり、歴史的に関係があります。その中で、善行地域では1950年代半ばの都市計画から街づくりが本格化し、小田急線善行駅の開設の前から善行台の宅地開発が行われ、その後に善行団地の建設が進みました。一方、大庭地域は1960年代半ばの都市計画をもとに、現在「湘南ライフタウン」と呼ばれる大規模な街づくりが行われました。
昨年度、文書館では地域資料の目録集である『歴史をひもとく藤沢の資料5 善行地区・湘南大庭地区』を刊行いたしました。刊行にあたり、収集された資料などを展示することで、両地区の歴史を紹介いたします。
この度の展示開催にあたり、貴重な資料をご提供いただいた市民や関係機関の方々に、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。
2021(令和3)年3月
藤沢市文書館長
現在の善行地域および大庭地域は、古代においては「大庭野(おおばの)」と呼ばれるところでした。この地域一帯が伊勢神宮の荘園として「大庭御厨(みくりや)」と呼ばれるのは12世紀前半で、この御厨の荘官の平景宗の子供が、大庭景義(かげよし)と景親(かげちか)の兄弟です。その大庭景親の居城とされたのが大庭城ですが、記録では扇谷上杉氏の一人、上杉朝昌(ともまさ)が築城し、後に北条早雲が落城させたとあります。
近世の大庭村は、入(いり)・小糸・台・谷(やと)・折戸・稲荷の6集落に分かれていました。このうち稲荷は17世紀半ばまでに分村して一つの村となりますが、そのほかの集落は村にならないまま、それぞれ違う領主の所領になっていました。このような状況を相給(あいきゅう)といいます。
現在の善行地域には、善行寺・立石・稲荷の3集落がありました。稲荷は大庭から独立して村となりましたが、善行寺と立石は藤沢宿に付属する枝村であり、村として公認されませんでした。ただし、文書の中で、善行寺の住人が村と自称することはありました。
明治初期の区番組制や大区小区制などの地方行政をめぐる紆余曲折を経て、稲荷村は大庭村・辻堂村・羽鳥村・鵠沼村とともに連合戸長役場を組織します(1884(明治17)年)。この連合村の中で鵠沼村を除く4か村が1889(明治22)年の村制実施によって明治村となります。その後、明治村は鵠沼村および高座郡藤沢大坂町(善行寺や立石を含む)と1908(明治41)年に合併し、藤沢町となりました。
1932(昭和7)年5月に現在の小田急江ノ島線善行駅の付近の高台およびその周辺で、「藤澤カントリー俱楽部」が開設されました。しかしアジア・太平洋戦争のさなか、同倶楽部は海軍用地として接収され、藤沢海軍航空隊および訓練施設が設置されました。また、その東南部には、飛行場などの関連施設が設置されました。敗戦後、ゴルフ場関連用地は払い下げられ、その場所に、県立藤沢総合運動場(現・県立スポーツセンター)や藤沢商業高校(現・藤沢翔陵高校)、聖園女学院などが建設されました。また、藤沢飛行場は小型機の訓練などを行う飛行場として、1964(昭和39)年まで使用されました。
山林と畑と原野で半分近くを占める農耕地帯であった善行地域で大規模な街づくりが始まるのは、1950年代末のことです。それ以前の1956(昭和31)年10月に藤沢市は総合都市計画を発表しましたが、この計画は藤沢市を均衡の取れた衛星都市として建設しようとするものでした。計画書の図では善行地域は市街地の北端に位置づけられ、小田急善行駅を新設して1.5ヘクタールの商業地域を確保するとともに、211ヘクタールの住宅地を整備し、1万6千人を吸収することが予定されていました。
この計画に基づき、現在の善行駅の北側にある小字椎名谷に「善行台団地」の開発が始まりました。この開発は、市が住宅金融公庫の融資を得て造成した約6ヘクタールの土地を158区画に分けて、市民に分譲する宅地造成事業でした。小田急江ノ島線の周辺住民らの要望で善行駅が開設されたのは、善行台団地の完成から半年後の1960(昭和35)年10月です。その翌年、周辺の土地区画整理事業が始まりました。それから約6年半の間に、幹線道路や駅前広場、公園が設置されることになったのです。
その後、この土地区画整理事業の隣接地に日本住宅公団の善行団地が建設されました。この団地は、藤沢市内の公団団地の中でも最大のもので、人口も7千人近くに及びました。団地内には、スーパーマーケットや郵便局、小学校なども併設されました。この団地は小田急線沿線ということもあり、都内に通勤する住民が全体の8割近くを占めました。
団地住民は自治会を組織し、列車やバスの増発をはじめとする交通機関の改善に始まり、居住環境の整備に至るまで広範囲な運動を展開しました。特に力を入れたのが消費者問題で、日用品の共同購入に始まり、生活協同組合の直営店舗が開設されました。また教育問題では、集会所での幼児教室が発展し、団地内の保育園舎建設につながりました。
藤沢市では、1960年代後半に新たな都市計画が提起されました。市政運営の基幹部門を担うべく新設された、企画管理室がまとめた報告書では、藤沢市の今後の将来の方向性は「住みよい街づくり」に向けた政策を優先的に進めるべきとうたわれています。そこで、行政(市)が先行して地域計画を立案し、そこに民間事業者らを誘導しながら、公共施設が整ったニュータウン建設が計画されました。これが西部開発計画(のちの湘南ライフタウン計画)の始まりです。対象地域に選ばれたのは、遠藤・大庭・石川地域でした。中でも大庭地域は引地川沿いの低湿地を除くと、ほとんどが台地とその間に入り込んだ谷戸から成り立っており、山林・原野が総面積の3分の1以上を占めていました。
1967(昭和42)年の市議会に発表された「西部地域開発構想」をもとに、同年4月に西部開発事務局が設置され、計画案の策定が行われました。それにかかわったのが、新進気鋭の建築家であった黒川紀章でした。黒川の提出した報告書を受けて1968(昭和43)年に基本計画が策定されました。西部開発事務局は、PR映画や講座、パノラマ展示などによって、この事業のアピールに努めました。
西部開発の起工式は1971(昭和46)年5月に行われましたが、地価の高騰や資金回収の困難さなどから、次第に西部開発計画は大きく変容していきました。また、翌年の市長選において当選した葉山峻市長のもとで、これまでの経済開発路線から市民の居住環境整備に重点を置いた市政への転換がうたわれ、西部開発事業についても大幅な見直しが行われました。その結果、高層住宅の一部低層化による収容人口の抑制、公共施設の整備等で既存住民の負担としない、大庭城址一帯の全市的公園化などが決まりました。
1975(昭和50)年に西部開発地区の名称が「藤沢ニュータウン」から「湘南ライフタウン」に改まり、1979(昭和54)年頃から次第に入居者も増加し、次第に街並みが整えられていきました。1982(昭和57)年には大庭トンネルが開通し、交通事情が改善されました。そして長期に及んだ街づくりの結果、1992(平成4)年に土地区画整理事業が完了しました。
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