藤沢市内には多くの中世文書が残されています。これらは、当時の地域の状況を知ることのできる貴重な資料として大切に守り伝えられてきました。本展では、これらの中世文書を中心に、祈念の島としての江の島をクローズアップしていきます。
江の島は、天女の坐す神の島として古くから人々の信仰を集めていました。古河公方や戦国大名北条家、徳川将軍家などこの地方の覇権を争った人々から芸能の民まで、様々な人が江島弁才天と結縁してその恩恵を受けるべく祈りを捧げました。
彼らは江島弁才天へ何を祈り、捧げたのか、その信仰のありかたを、資料を残してこられた先人の努力とともに紹介します。
最後になりましたが、資料の公開につきましてご許可をくださいました所蔵者の皆様と、ご協力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。
2021年10月
藤沢市文書館長
この展示は、2021年(令和3年)10月1日から11月26日にかけて藤沢市文書館で開催した同名の展示をウェブサイト用に再構成したものです。実際に展示した資料のうち掲示しないものがあります。
天女の降臨
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江の島には、天女降臨の伝説が残されています。その世界は江島縁起によって鮮やかに描かれています。
弘仁5年(814)2月、弘法大師が京から東海へ旅立ち、相州津村の湊に泊まりました。江の島を望むとそこにかかる美しい雲の上に金龍が現れます。翌日島に渡った大師が、金窟(岩屋)に参詣し祈りを捧げたところ、七日目の未明に弁才天が現れ、災難を除き国土を鎮めると告げました。敬服した大師が金窟に創建したのが江の島の社殿のはじまりとされています。
江の島が歴史資料に現れるのは「吾妻鏡」の寿永元年(1182)4月5日、源頼朝が文覚上人に奥州の藤原秀衡調伏の祈祷を行わせた記事が最初です。江島縁起の絵は、当時の社殿の様子を彷彿とさせます。
降臨した天女、江島弁才天のもとには、現在に至るまで多くの人々が参詣し、願いをかなえようと祈念をしています。
8694
木造八臂弁才天坐像
鎌倉時代・13世紀
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188
像高58.5㎝、寄木造、玉眼、国指定重要文化財
八本の腕を持ち、宝珠と弓・矢・剣・輪宝・戟(げき)・宝棒・鉤(かぎ)という武具を持物とする軍神の姿で、武士の信仰を集めた。頭上に蛇身老人面の宇賀神を戴く財福神の特徴も併せ持つ。首枘(ほぞ)の墨書銘に永正10年(1513)の彩色修理が記録される。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
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江島縁起絵巻 4巻第1段
室町時代・16世紀
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320
江島縁起の仮名本絵巻として現存最古の写本、全5巻、藤沢市指定文化財
弘仁5年(814)2月、金竜に導かれた弘法大師は江の島金窟(岩屋)で国土と民の守護を祈る。7日目に眷属を従え出現した弁才天から、災難を除き国土を護るというお告げを得た大師は、岩屋に仏具を供えた社殿を創建する。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8692
江島縁起絵巻 4巻第1段
江戸時代・17世紀
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320
江島縁起の仮名本絵巻、岩本院本の模写本、全5巻、絵は水戸藩の御用絵師狩野興也(かのう・こうや 寛文13年(1673)没)による。
弘仁5年(814)2月、「きんりう」(金竜)に導かれた弘法大師の江島金窟参籠と弁才天の出現、大師による岩屋の社殿創建の場面。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
59
8691
吾妻鏡
室町時代・16世紀
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180
鎌倉幕府が編纂した公式記録の現存最古の写本、小田原北条氏旧蔵本、表紙部分
※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8690
吾妻鏡
室町時代・16世紀
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320
鎌倉幕府が編纂した公式記録の現存最古の写本、小田原北条氏旧蔵本。
寿永元年(1182)4月5日条 源頼朝(武衛)が江の島で文覚上人に鎮守府将軍藤原秀衡調伏を祈らせ、鳥居を立てた記事が見える。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
231
8689
吾妻鏡
室町時代・16世紀
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165
鎌倉幕府が編纂した公式記録の現存最古の写本、小田原北条氏旧蔵本。
寿永元年(1182)4月26日条 文覚上人が江の島で21日間断食懇祈の参籠を終えた記事がある。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
資料を残した先人
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江の島には、多くの中世文書が伝存していますが、これは偶然残ったものではありません。資料を後世に伝えるという先人の意思によって残されてきたものなのです。
大正7年(1918)年、岩本兼吉氏は、岩本院に伝来した古文書類を「古文書帖」という大型の折本1冊と「古文書」の巻子50巻に表装し、冊子体の資料を合冊製本しました。その理由は、「散逸ノ虞(おそれ)アルニ因リ今回之ヲ整理シテ後世ニ貽(のこ)スモノ也」という折本と巻子それぞれの末尾に記された言葉で明らかになります。
こうした努力のおかげで岩本院文書は、変化する時代の中でも散逸することもなく、現在まで残されてきたのです。
藤沢市文書館も、この言葉のように次世代へと資料を引き継いでいくことが大切な責務です
8688
古文書帖 箱
大正7年(1918)3月
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320
岩本兼吉氏によって作成された「古文書帖」を収納する木製蓋付箱。
蓋裏に墨書「大正七年三月新調 岩本兼吉」とある。
縦75.4㎝、横57.5㎝、総高19.0㎝。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
238
8687
古文書帖
大正7年(1918)3月
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320
岩本兼吉氏によって作成された「古文書帖」。
縦51.2㎝、横69.5㎝、厚さ4~7㎝の大型折本。前後に布張りの表紙が付き、前表紙中央部金地の外題簽に「古文書帖」と墨書がある。台紙は37折、見開きは表裏各38面あり、中世・近世文書192点が貼り込まれている。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
230
8686
古文書帖 奥書
大正7年(1918)3月5日
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179
岩本兼吉氏によって作成された「古文書帖」の奥書。
表面の末尾、38面の左に記された墨書。中に貼り込まれた文書が家に伝世したものであり、散逸を防ぐために整理をし、後世に貽(残)す、という古文書帖作成の目的を記す。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8685
古文書 巻子箱
大正7年(1918)
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232
岩本兼吉氏によって作成された「古文書」巻子50本を収納する木製蓋付箱
2箱あり、各蓋表に「古文書上」「古文書下」と墨書がある。縦47.5㎝、横40.5㎝、高さ45.0㎝。各箱に5巻入の浅い木箱(縦44.0㎝、横37.0㎝、高さ7.2㎝)が5段重ねられ、計25巻が収納される。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8684
古文書 巻子奥書
大正7年(1918)3月5日
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65
岩本兼吉氏によって作成された「古文書」巻子の奥書。
各巻末尾に記されているうちの32巻のもの。巻子に仕立てられた文書が家に伝世したものであり、散逸を防ぐために整理をして、後世に貽(残)す、という巻子装丁の目的を記す。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
古河公方 ~連々の祈念~
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室町幕府が関東に置いた鎌倉府の中で起きた、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)と関東管領上杉氏の抗争、享徳の乱(1454~83)を契機に関東地方は戦国時代に入りました。成氏は上杉方を追撃して下総古河に着陣し、鎌倉に帰還できないままそこを本拠として古河公方と呼ばれました。
成氏は、鎌倉公方だった宝徳2年(1450)に上杉方の襲撃を受け、江の島に逃れて戦い(江島合戦)、また、享徳の乱に際しても江の島岩本坊の祖の間宮氏の警固を受けるなど、江の島と深い関わりを持ちました。
こうしたことから歴代の古河公方も江の島の岩本坊らに祈念するよう求め、弁才天の絵像などを贈られました。古河公方初代から五代までの文書がすべて揃って残っているのは珍しく、また、その都度ではなく継続して祈祷が行われていたと考えられる「連々之祈念」と記されるのは、岩本坊岩本坊に宛てたものだけです。
8683
鎌倉大草紙
成立年不詳
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320
鎌倉公方(古河公方)足利氏と関東管領上杉氏の動向を中心に、関東の動静を記した軍記物語の写本、江島合戦の部分。
宝徳2年(1450)4月21日、上杉勢が足利成氏の御所を襲撃したため、成氏は江の島へ逃れ腰越で合戦が行われた。5月に和睦が成立し成氏は鎌倉に帰る。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
152
8682
足利成氏巻数請取状
(長禄3~長享2年頃)(1459~88)8月5日 ※年代は花押型から推定
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320
古河公方初代足利成氏が江島岩本坊に宛てた巻数請取状。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。この文言は2~4代古河公方まで踏襲される。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
129
8650
(翻刻) 足利成氏巻数請取状
(長禄3~長享2年頃)(1459~88)8月5日
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320
古河公方初代足利成氏が江島岩本坊に宛てた巻数請取状の翻刻。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。この文言は2~4代古河公方まで踏襲される。
228
8681
足利政氏巻数請取状
(長享3~明応頃)(1489~1501)8月5日 ※年代は花押型から推定
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320
古河公方2代足利政氏が江島岩本坊に宛てた巻数請取状。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
138
8649
(翻刻) 足利政氏巻数請取状
(長享3~明応頃)(1489~1501)8月5日
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320
古河公方2代足利政氏が江島岩本坊に宛てた巻数請取状の翻刻。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。
216
8680
足利高基巻数請取状
(永正10~大永頃)(1513~28)10月晦日 ※年代は花押型から推定
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320
古河公方3代足利高基が江島岩本坊に宛てた巻数請取状。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
126
8648
(翻刻) 足利高基巻数請取状
(永正10~大永頃)(1513~28)10月晦日
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320
古河公方3代足利高基が江島岩本坊に宛てた巻数請取状の翻刻。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。
229
8679
足利晴氏巻数請取状
(天文4~13年頃)(1535~44)10月晦日 ※年代は花押型から推定
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320
古河公方4代足利晴氏が江島岩本坊に宛てた巻数請取状。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
126
8647
(翻刻) 足利晴氏巻数請取状
(天文4~13年頃)(1535~44)10月晦日
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320
古河公方4代足利晴氏が江島岩本坊に宛てた巻数請取状の翻刻。
連々の祈念をしていることを称賛し、巻数(かんじゅ、読誦した経文目録)と弁才天像、扇子が届けられすばらしいと記す。
204
8678
足利義氏書状
(永禄元年ヵ)(1558)4月6日
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320
古河公方5代足利義氏が江島岩本坊に宛てた礼状。
永禄元年4月に義氏が鎌倉八幡宮に社参していることから、同年のものと推定される。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
140
8646
(翻刻) 足利義氏書状
(永禄元年ヵ)(1558)4月6日
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320
古河公方5代足利義氏が江島岩本坊に宛てた礼状の翻刻。
永禄元年4月に義氏が鎌倉八幡宮に社参していることから、同年のものと推定される。
223
北条家 ~保護と寄進と戦勝祈念~
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永正元年(1504)戦国大名の小田原北条家初代伊勢宗瑞(いせそうずい)は、軍勢らが乱暴狼藉することを妨げる禁制を江の島に与えました。このこと自体は島民が求めた安全保障に応じたものですが、宗瑞は韮山城内に弁才天を祀ったことが知られ、その子北条氏綱(うじつな)も小田原城内に江島弁才天を勧請するなど、北条家は弁才天に信仰を寄せていました。
その後も玉縄城主北条綱成(つなしげ) が岩屋の鳩の殺生を禁じるなど、北条氏の一族は江の島に対し保護を加えたほか、江の島が諸権力に属さない公界所である、という認識を持ち、参詣人への関役も認めました。
岩屋の遷宮や社殿の修造などが行われた際には、北条氏の一族やその家臣らから多くの金品が寄進され、神前に供えられました。島を管理する岩本坊・下之坊・上之坊は、これに報いるべく北条これに報いるべく北条氏の戦勝を江島弁才天に祈念しました。
8677
伊勢宗瑞禁制
永正元年(1504)甲子9月6日
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320
伊勢宗瑞が江の島に与えた禁制。
宗瑞が甥である駿河の大名今川氏親の後見役として山内・扇谷両上杉氏の合戦に出陣した折に発給し、味方の軍勢からの安全を保障した。発給日は癸巳で弁才天の縁日に当たり、戦勝祈願を伴うものだった可能性もある。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
208
8645
(翻刻) 伊勢宗瑞禁制
永正元年(1504)甲子9月6日
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伊勢宗瑞が江の島に与えた禁制の翻刻。
宗瑞が甥である駿河の大名今川氏親の後見役として山内・扇谷両上杉氏の合戦に出陣した折に発給し、味方の軍勢からの安全を保障した。発給日は癸巳で弁才天の縁日に当たり、戦勝祈願を伴うものだった可能性もある。
240
8676
地黄八幡旗指物
元亀2年(1571)
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119
玉縄城3代城主北条綱成が戦陣で用いた旗指物。
朽葉色の練絹に「八幡」と墨書されており、それぞれの文字に鳩の意匠が施されている。武田軍の真田信尹が奪取したと軸装に裏書され、元亀2年の駿河深沢城(静岡県御殿場市)での戦利品とされる。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8675
北条綱成禁制
天文20年(1551)辛亥5月26日
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320
玉縄城3代城主北条綱成が江の島に与えた禁制。
江の島の岩屋内で鳩を捕獲し殺生することを禁じ、違反者は玉縄へ注進するよう岩本坊に命じた。鳩は関東武士の精神的支柱である鶴岡八幡神の使であり、また伝書鳩としての用途も想定されている。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
221
8644
(翻刻) 北条綱成禁制
天文20年(1551)辛亥5月26日
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264
玉縄城3代城主北条綱成が江の島に与えた禁制の翻刻。
江の島の岩屋内で鳩を捕獲し殺生することを禁じ、違反者は玉縄へ注進するよう岩本坊に命じた。鳩は関東武士の精神的支柱である鶴岡八幡神の使であり、また伝書鳩としての用途も想定されている。
240
8674
北条康成判物
(永禄4年(1561))辛酉3月4日
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320
玉縄城4代城主北条康成が江の島坊住に対し敵襲への対応を指示した判物。
江の島が大名権力に属さない「公界所」であり、敵襲があれば自衛措置をせよとする。
この時期は北条氏の房総の里見氏攻撃を契機に越後の長尾景虎の関東侵攻があり、江の島対岸の腰越でも合戦があった。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
220
8643
(翻刻) 北条康成判物
(永禄4年(1561))辛酉3月4日
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320
玉縄城4代城主北条康成が江の島坊住に対し敵襲への対応を指示した判物の翻刻。
江の島が大名権力に属さない「公界所」であり、敵襲があれば自衛措置をせよとする。
この時期は北条氏の房総の里見氏攻撃を契機に越後の長尾景虎の関東侵攻があり、江の島対岸の腰越でも合戦があった。
212
8673
岩本坊江島遷宮寄進注文
(天文13年(1544))閏霜月23日
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320
岩本坊が江島での遷宮に必要な金品とその数量、寄進者名を記した書上。
「江の島御遷宮」と「御殿入の道具」に要する金品20品目と、それを分担する玉縄北条氏ゆかりの寄進者72名の名が記される。
年末に近く、実際の遷宮は弁才天有縁の巳年、天文14年に行われたと推測されている。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
75
8672
へんさいてんの御きねんの覚
江戸時代
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320
江戸時代に行われた江島弁才天への祈念の様子を記した覚。
祈念のための行事の具体的な内容と費用が記され、遷宮寄進注文にある「一山供養」が、江の島内の男女全員へのふるまい(饗応)であることがわかる。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
226
8642
(翻刻) へんさいてんの御きねんの覚
江戸時代
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259
江戸時代に行われた江島弁才天への祈念の様子を記した覚の翻刻。
祈念のための行事の具体的な内容と費用が記され、遷宮寄進注文にある「一山供養」が、江の島内の男女全員へのふるまい(饗応)であることがわかる。
240
8671
北条氏康書状
(天文15年(1546))卯月17日 ※年代は花押型から推定
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316
小田原北条家3代当主北条氏康が岩本坊に江島弁才天への神馬奉納を伝えた書状。
この年武蔵川越(埼玉県川越市)で山内・扇谷両上杉氏と古河公方連合軍との大規模な合戦があり、出陣途上に戦勝祈願をしたものとみられる。祈念は奏功し氏康は勝利を収めた。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8641
(翻刻) 北条氏康書状
(天文15年(1546))卯月17日
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289
小田原北条家3代当主北条氏康が岩本坊に江島弁才天への神馬奉納を伝えた書状の翻刻。
この年武蔵川越(埼玉県川越市)で山内・扇谷両上杉氏と古河公方連合軍との大規模な合戦があり、出陣途上に戦勝祈願をしたものとみられる。祈念は奏功し氏康は勝利を収めた。
240
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北条氏康室局書状
(元亀2年(1571)正月ヵ)
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320
小田原城の本城局が北条氏康室(瑞渓寺殿)の意を奉じて岩本坊に発した書状。
北条氏政・氏照らと今川氏真がともに出陣していることから駿河深沢城(静岡県御殿場市)での武田信玄との合戦に際したものとみられる。この戦では祈念も及ばす、深沢城は武田方の手に落ちた。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
122
8640
(翻刻) 北条氏康室局書状
(元亀2年(1571)正月ヵ)
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320
小田原城の本城局が北条氏康室(瑞渓寺殿)の意を奉じて岩本坊に発した書状の翻刻。
北条氏政・氏照らと今川氏真がともに出陣していることから駿河深沢城(静岡県御殿場市)での武田信玄との合戦に際したものとみられる。この戦では祈念も及ばす、深沢城は武田方の手に落ちた。
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北条氏直書状
(天正13年ヵ)(1585)10月7日
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小田原北条家5代当主氏直が江島下之宮別当(下之坊)に陣中への使者を謝し、上之坊・岩本坊の三坊による戦勝祈念を依頼した書状。
北条氏が真田氏を上野(群馬県)から越後(新潟県)国境まで攻めた後、氏直が下総(千葉県)へ千葉家内紛の鎮圧に赴いた時の陣中見舞の礼。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
127
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(翻刻) 北条氏直書状
(天正13年ヵ)(1585)10月7日
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320
小田原北条家5代当主氏直が江島下之宮別当(下之坊)に陣中への使者を謝し、上之坊・岩本坊の三坊による戦勝祈念を依頼した書状の翻刻。
北条氏が真田氏を上野(群馬県)から越後(新潟県)国境まで攻めた後、氏直が下総(千葉県)へ千葉家内紛の鎮圧に赴いた時の陣中見舞の礼。
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北条氏勝判物
(天正18年ヵ)(1590)4月7日
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320
玉縄城6代城主北条氏勝が江の島を味方の軍勢から加敗(庇護)し、敵軍の情報提供を求めた判物。
この年7月に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たす。3月に落城した伊豆山中城(三島市)から玉縄城に戻った氏勝が当主に代わり発給。斜めに運ばれた筆跡に緊迫感がある。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8638
(翻刻) 北条氏勝判物
(天正18年ヵ)(1590)4月7日
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玉縄城6代城主北条氏勝が江の島を味方の軍勢から加敗(庇護)し、敵軍の情報提供を求めた判物の翻刻。
この年7月に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たす。3月に落城した伊豆山中城(三島市)から玉縄城に戻った氏勝が当主に代わり発給。
240
8667
豊臣秀吉禁制
天正18年(1590)卯月日
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320
豊臣秀吉が江島寺に与えた禁制。
軍勢等の乱暴狼藉や住民に対する不当な行為を禁じるもので、安全保障のため対価を払って購入するものである。旧庇護者の北条氏からの判物と、新権力の豊臣家からの禁制を同時に得るという江の島の自衛意識をみることができる。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8637
(翻刻) 豊臣秀吉禁制
天正18年(1590)卯月日
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320
豊臣秀吉が江島寺に与えた禁制の翻刻。
軍勢等の乱暴狼藉や住民に対する不当な行為を禁じるもので、安全保障のため対価を払って購入するものである。旧庇護者の北条氏からの判物と、新権力の豊臣家からの禁制を同時に得るという江の島の自衛意識をみることができる。
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芸能の民 ~弁才天との結縁~
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弁才天は、神としての幾つもの性格を持っています。「金光明最勝王経」では、天の伎楽を行って同経を援護して諸病苦を取り除き、弁才天陀羅尼を唱えると所願成就と財宝を得られる福徳神とされ、八臂に武器を持つ姿により戦闘神としても示されます。また「大毘盧遮那成仏経疏」では、弁才天は妙音楽天ともいわれ、この経典にもとづき二臂に琵琶を持つ音楽神の姿が描かれました。
古河公方や北条氏は戦闘神としての弁才天に加護を求めて祈りを捧げましたが、音曲神としての功徳を求める芸能を生業とする人々も、江島弁才天と結縁すべく江の島にちなむ芸術作品をつくりました。
戦国時代の連歌師谷宗牧(たにそうぼく)は、京都から江戸、東北までの旅のなかで江の島を訪れて句を詠み、能楽師の観世長俊(ながとし)は、江島縁起を題材とした能「江野島」を創作しました。
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東国紀行
天文14年(1545)成立
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320
連歌師谷宗牧が著した紀行文の表紙と冒頭部分。
宗牧は連歌を宗長・宗碩に学ぶ。天文13年京都を出立し近江、伊勢、を訪ねて駿河で年を越し、小田原、江の島、鎌倉を経て江戸へ旅した。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
228
8665
東国紀行
天文14年(1545)成立
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320
連歌師谷宗牧が著した紀行文。
天文14年小田原から江戸への途の2月29日に、翌3月1日が弁才天縁日の亥日のため結縁しようと江の島の岩屋を参詣、縁起を見て、乞われて奉納の発句を詠んだ部分。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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(翻刻) 東国紀行
天文14年(1545)成立
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320
連歌師谷宗牧が著した紀行文の翻刻。
天文14年小田原から江戸への途の2月29日に、翌3月1日が弁才天縁日の亥日のため結縁しようと江の島の岩屋を参詣、縁起を見て、乞われて奉納の発句を詠んだ部分。
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8663
江野島 (観世流謡曲本23)
天文元年(1532)成立/大正6年(1917)刊
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320
戦国時代の能楽師観世弥次郎長俊が創作した能。
長俊が熱海での湯治中に江島縁起絵巻を見て作詞したとされる。海中湧出の霊地江野島を舞台に五頭竜王と弁才天が国土守護を誓い眷属と共に舞う華やかな能の冒頭部分。天文3年(1534)正月12日には三条西実隆に猿楽として披露された(実隆公記)。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8662
(翻刻) 江野島
天文元年(1532)成立/大正6年(1917)刊
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320
戦国時代の能楽師観世弥次郎長俊が創作した能の翻刻。
長俊が熱海での湯治中に江島縁起絵巻を見て作詞したとされる。海中湧出の霊地江野島を舞台に五頭竜王と弁才天が国土守護を誓い眷属と共に舞う華やかな能の冒頭部分。天文3年(1534)正月12日には三条西実隆に猿楽として披露された(実隆公記)。
206
徳川家 ~引き継がれる信仰~
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北条氏が滅んだのち関東を治めた徳川家康は、慶長5年(1600)会津の上杉景勝(かげかつ)の制圧に赴く途中、宿泊した藤沢から鎌倉一覧に出て江の島弁才天に参詣しました。天下統一を果たした後は、将軍職を譲って大御所として駿府で過ごしていた折にも、伊豆山権現の別当般若院を通じた交流がありました。
寛永8年(1631)に前将軍秀忠が病気になった際には、全国の55か所の寺社に病気平癒の祈りが命じられました。相模国で選ばれたのは、鎌倉の鶴岡八幡宮と江島弁才天の2か所です。神社には百味の御食を供え、千度万度の祓などを行うこと、寺には仁王般若経を修法することが指示されました。
弁才天への祈りを捧げたのは為政者ばかりではありません。近世には霊験の島はまた観光地としても発展をとげ、江の島を訪れる庶民のためにガイドとしての案内書や絵図が数多く作られるようになっていきます。
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駿府記
慶長年間成立
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180
慶長16~20年(1611~15)にかけての徳川家康の動静を中心とした日記の写本表紙。
駿府の大御所政治の公的記録というべき内容をもつ。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8660
駿府記
慶長年間成立
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320
慶長16~20年(1611~15)にかけての徳川家康の動静を中心とした日記の写本。
慶長16年10月2日条 岩本坊が天台三大部の経典60巻を献じて家康と天台法問の雑談をした記事の部分。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
220
8659
駿府記
慶長年間成立
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172
慶長16~20年(1611~15)にかけての徳川家康の動静を中心とした日記の写本。
慶長17年条 岩本坊と交流のある伊豆山般若院快運の記事の部分。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8658
書状、相国様御不例につき祈祷申付
(寛永8年)(1631)7月22日
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320
江戸幕府老中・勘定奉行から代官服部惣左衛門に宛てた書状。
徳川秀忠(相国様・台徳院)の病気平癒の祈祷を鶴岡八幡宮と江島弁才天に申し付けるよう命じるもの。この祈祷は、五山のほか全国50の寺社に命じられた。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8636
(翻刻) 書状、相国様御不例につき祈祷申付
(寛永8年)(1631)7月22日
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284
江戸幕府老中・勘定奉行から代官服部惣左衛門に宛てた書状の翻刻。
相国様(徳川秀忠)の病気平癒の祈祷を鶴岡八幡宮と江島弁才天に申し付けるよう命じるもの。この祈祷は、五山のほか全国50の寺社に命じられた。
240
8657
書状、相国様不例につき祈祷仕るべき旨
(寛永8年)(1631)7月23日
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320
代官服部惣左衛門から江の島社僧中に宛てた書状。
徳川秀忠(相国様・台徳院)の病気平癒の祈祷を入念に行うべき事と、それが将軍徳川家光の意向である事を伝え、祈念の内容と費用を報告することを指示する。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8635
(翻刻) 書状、相国様不例につき祈祷仕るべき旨
(寛永8年)(1631)7月23日
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261
代官服部惣左衛門から江の島社僧中に宛てた書状の翻刻。
徳川秀忠の病気平癒の祈祷を入念に行うべき事と、それが将軍徳川家光の意向である事を伝え、祈念の内容と費用を報告することを指示する。
240
8656
岩本坊祈念入用書立
(寛永8年)(1631)7月23日
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320
徳川秀忠の病気平癒の祈祷を行うための必要物資・経費の書立、代官服部惣左衛門に提出した控。前欠資料。
※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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8634
(翻刻) 岩本坊祈念入用書立
(寛永8年)(1631)7月23日
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320
徳川秀忠の病気平癒の祈祷を行うための必要物資・経費の書立、代官服部惣左衛門に提出した控の翻刻。前欠資料
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8655
江之島金亀山三宮細見之図
江戸時代
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320
江の島一山の境内図。
木版、島内の堂社や建造物、名所などが描き込まれており島内を巡っていける案内図になっている。
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鎌倉・江ノ嶋・大山 新板往来双六
天保3~4年(1832~33)
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176
往来双六、大々判錦絵。
一般的な上りがある双六ではなく、日本橋を出発し東海道を通って粟船(大船)から鎌倉・江の島をめぐり、藤沢・四ツ谷から大山道で大山を経て、渋谷から日本橋へ戻るようになっている。北斎の描く唯一の道中双六。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8653
江島弁才天御影
文政3年(1820)正月
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江島本宮岩屋の弁才天御影。木版、軸装。
八臂弁才天を中心に毘沙門天、大黒天と十五童子像が描かれている。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
240
8652
江島大神御影
明治時代
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江島大神の姿を描いた御札。印刷物。
明治時代に入り、神仏分離政策によって江島弁才天宮から江島神社となったことから、御札についても弁才天像から神像へと変化した。
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おわりに
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江の島に伝承されてきた中世文書を中心として、江島弁才天への祈念の在り方を見てきました。
鎌倉幕府将軍の源頼朝をはじめとして、この地方を治めた為政者たちは、みな江島弁才天に祈念をし、統治への助力を得ようとしました。
庶民もまた祈りを捧げましたが、なかでも弁才天が持つ音曲の才にあやかるべく、芸能の民が結縁して文学や芸術の作品を作りました。
その後、弁財天という表記をされることからもわかるように、福徳や財産をもたらす神として信仰を集め、また風光明媚な江の島を一目見るために全国各地から人々が訪れました。世情が変わり、明治維新を経て江島弁才天宮から江島神社となり、戦後の埋め立てにより島の形すら大きく変わりましたが、江の島での祈念は途絶えることなく、現在も多くの人々が訪れて願いをかける聖地であり続けています。
国土安穏、病気平癒、学芸上達、恋愛成就・恋愛成就・・・
あなたは何を祈念しますか。
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金竜
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320
江島縁起 4巻第1段 に登場する金竜の画像を加工。 ※所蔵者の所有権保護のためダウンロードできません。
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