令和4年度の藤沢市文書館の収蔵資料展は、「江戸時代の長後地区―地域に伝えられた絵図・手紙から―」と題し、長後地区に伝えられた江戸時代の資料を紹介します。
展示で取り扱う資料の多くは、『藤沢市史』の近世編発行以降(1974(昭和49)年)に発見されたことから、一部の資料を除き『藤沢市史資料所在目録稿』に掲載されるにとどまっておりました。
昨年度『歴史をひもとく藤沢の資料6長後地区』を刊行するにあたり、長後地区に係わる資料を再整理したところ、江戸時代の長後地区の姿をうかがう資料を多数確認することができました。
この展示は、それらの一部を市民の皆様にご紹介することを目的としております。
資料からは、長後地区の耕作地は、田は境川や引地川の河川沿いと谷戸田に限られ、大部分が畑です。そのなかで、江戸幕府の定める年貢や役を領主に供出し、さらには領主の臨時の出費を支え、また戸塚宿の定助郷として東海道の交通を支えていた姿が伺えます。
現代とは異なる長後地区の村々の様子や村人の暮らしを、資料の中から見出していただければ幸いです。
最後になりましたが、長く伝えられた貴重な資料を当館に寄託・寄贈くださった資料所蔵者の皆様と、展示開催にご協力くださった皆様に心より感謝申し上げます。
2022年(令和4年)年11月
藤沢市文書館長
江戸時代の長後地区は、上長後村、下長後村、七ツ木村、千束村(一部)、下土棚村、円行(一区画が含まれるだけなので、本展示では触れません)でした。ここでは各村の江戸時代の姿を伝える絵図を集めました。
展示した絵図は、まずは、上長後村の住民の子孫である、関水廣行家文書に含まれる絵図です。展示している「七ツ木村・千束村の絵図」(1-01)、「上長後村絵図」(1-03)、「上・下長後村より周辺村への里程図」(1-05)の他に、上和田村絵図、下和田村絵図、上飯田村絵図など、計10件が確認されています。周辺の村々を含んだ他村の絵図を所持していることが特徴です。ここから、江戸時代の地図の所有者は、地図を必要とするような他村との関係が伺えますが、具体的な関係は不明です。
他方の絵図は、明治政府の租税改革である地租改正(ちそかいせい)(明治6(1873)年~)にともなって作成されたものです。明治初期に作成されたものですが、江戸時代末期の村の様子と読み取れるものです。絵図には土地の区画一筆ごとに地番と面積が記され、地目ごとに色が塗られています。張り合わせた大きな紙に村全体を描いた絵図を大図(全図)といいます。小字ごとに描いた絵図を切図といい、俗に旧公図とも呼ばれています。一筆が分筆したり合筆したり地目を変更するごとに張り紙をして、土地の所有状況を管理していました。
1-01、1-03の絵図に「元大山道」とあります。古い大山道は、現在知られる大山道より北にあり、天満宮に通じています。天満宮が渋谷重国(しぶやしげくに)の館址との伝承と考え合わせると、江戸時代以前の中心は現在より北側にあったと思われます。
徳川家康の江戸入府(天正18(1590)年)の後、徳川の家臣達には関東に領地が与えられます。相模国は大名領が少なく、特に高座郡は幕府の直轄地及び旗本(将軍に拝謁できる家臣)の知行地が大半になります。
検地(けんち)(土地調査)によって反別(たんべつ)(土地の面積)と土地の等級を計測し、石高(こくだか)(算定農業生産力)を決定します。これに基づき、幕府は旗本に知行地を与えました。
旗本は領主として知行地へ多くを賦課しました。賦課は年貢と役に分けられ、年貢は本年貢とそれ以外の小物(こもの)成(なり)とに分けられました。土地にかかる年貢は本年貢で、多くの場合、田は米で、畑・屋敷は貨幣で支払われました。
領主は、その年の年貢高を村の石高を基準に状況を考慮して決定し、年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)を作成して村に送付します。村は年貢の納入を請け負い、名主が年貢高を村人の土地所持高に応じて割振り、徴収します。納付が完了すると年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)が領主から送付されます。
資料からは、江戸時代後期から末期の年貢以外の賦課の実態が伺えます。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)の饗応等の費用を課した国役、領主の借金の返済、領主の屋敷の再建費
用や武器製造費用など臨時出費への御頼り金(おたよりきん)、領主子弟婚姻の祝金などが見られます。規模の大きな出費が幕府や領主に発生すると、それらは村人が負担することになったようです。村人にかかった負担の大きさについては、「とにかく年貢の取り立てが厳しかった」と江戸時代後期に名主を勤めたお宅に現在まで伝えられています。
負担は、領主に対するものだけではありませんでした。長後地区の村々は、戸塚宿の助郷(すけごう)として、戸塚宿に人や馬を提供しなければならず、村人の生活に大きな負担となっていました。
上長後村の田中家には342件の資料が伝えられ、現在藤沢市文書館に寄託されています。特に多いのは江戸時代後期から幕末にかけての上長後村の名主を務めた頃の資料で、ここからこの時期の上長後村と周辺の村々との関係が見出せます。
田中家の資料には、村人や名主が多くの賦課を負ったことを表す資料があり、田中家と領主の土屋氏の間には書状の往来が頻繁にありました。賦課に係わる書状は、直接土屋氏からもたらされるのではなく、土屋氏を領主とする近隣の村を経由することがあり、村どうしの往来も伺えます。
上長後村の負った賦課には助郷(すけごう)があります。これは、東海道等の宿場で物資の運搬を支える人足や馬の調達を、宿場の周辺の村々が助けるための制度です。上長後村と周辺の村々は戸塚宿の助郷で、戸塚宿へ人馬を提供することを通じて関係がありました。
田中家の資料には、改革組合村(かいかくくみあいむら)に関連する資料があります。改革組合村とは、文政の改革において江戸幕府の財政基盤である関東の村落支配を、領主を介さず幕府が直接担うことで再建・強化することを目的に作られた組織です。文化2(1805)年に設置された関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)が統括し、犯罪者の取り締まりや幕府から触書(ふれがき)(命令書)の伝達が主な役割でした。上長後村は、戸塚宿を寄場(よせば)とする大組合に属し、七ツ木村を小組惣代として周辺村と触書を送りあっていました。
このように村どうしの関係は書状のやり取りを通じて作られていきますが、その背景には、江戸時代後期に寺子屋が盛んになり、識字率が高くなったことがあります。上長後村には、関水泉遊という寺子屋師匠がいました。泉遊の教え子は上長後だけでなく、周辺の村々にも多数いることが3-19からわかります。上長後村は、地域社会における文化的な交流の拠点でもあったのです。
ここでは、上長後村、下長後村、七ツ木村、千束村、下土棚村にある寺社の写真と、寺に残された領主の墓の写真を展示しています。領主の墓の墓石には碑文が刻まれており、誰の墓であるかがわかります。
長後地区に伝えられた資料から、長後地区の村々には助郷を含めて非常に多くの賦課がかかっていたことがわかりました。多くは貨幣での支払いをしていますが、これに対応するための現金収入につながる作物の生産や売買に関する資料は、藤沢市文書館にはありませんでした。2-15は小麦粉の献上がありますので、これが該当するかもしれません。
また、幕末の上長後村と周辺の村々との多様な関係も見出すことができました。助郷や改革組合村が、藤沢宿ではなく戸塚宿に属していたことや、下長後村の津出(つだし)が、藤沢宿と関わりが深い片瀬の港ではなく、戸塚宿の先の保土ヶ谷の港(2-11、12)であったことから、滝山道の南方の藤沢宿ではなく大山道の東方の戸塚宿との関わりが深かったことがうかがえ、特徴的です。
明治維新後、長後地区のうち下土棚村を除いた村々は、明治の大合併(明治22(1889)年)で上和田村、下和田村、福田村と共に渋谷村となります。これは江戸時代に戸塚宿と関係の深かった村どうしの合併でした。その後の昭和の大合併(昭和30(1955)年)では上和田村、下和田村、福田村と別れて藤沢市と合併します。長後地区の村々はこの間に藤沢(宿)との関係が深まり昭和の大合併につながったことが予想されますが、長後地区の村々と藤沢の街を繋ぐものが具体的に何だったかは、今後の課題となります。
下土棚村は、明治5(1872)年に編成された戸籍区では上長後村等と共に20区に属しながらも、明治の大合併では渋谷村には属さず六会村に属しました。その背景として、上長後村とは異なる周辺地域との関係が形作られていたことが想定されますが、具体的な考察のための資料が藤沢市文書館にはありません。
今回の展示が、市民の皆様が長後地区の歴史について興味を持つきっかけとなること、また更なる資料の発掘により研究が進むことを願ってやみません。
1 江戸時代の長後地区
2 村人と負担
3 幕末の上長後村と取り巻く世界
おわりに
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