丸山久子(1909~1986)は、藤沢市教育文化研究所に籍を置いた柳田國男門下の民俗学者で、藤沢市における民俗学研究を確立させた人物でもあります。
民俗学は生活習俗を記録し研究する学問であり、人々の意識や信仰を理解することを目的とします。丸山が特に重視したフィールドは遠藤地区で、高度経済成長前後の暮らしぶりが多く記録されました。藤沢市は、戦後の都市化にともなう変化が激しい都市であり、丸山の活動により、かつての人々の暮らしや習俗が辛うじて記録されたとも言えます。
丸山の没後、膨大な資料群である「丸山文庫」が遺され、現在も整理を続けています。昨年度、文書館では『歴史をひもとく藤沢の資料』シリーズで遠藤地区を取り上げ、これにあわせて「丸山文庫」の整理を進めましたが、作業を通じて、慣例として行われる行事には、それぞれ意味や祈りが込められていることを再認識させられました。
今回の展示は、「丸山文庫」を中心に、資料を通じて遠藤地区の生活文化をご紹介します。ところで、民俗学は多くの民具を収集し、違いや分布から地域の独自性を見出す学問でもありますが、展示可能な資料に限りがあることをお詫び申し上げます。
最後になりましたが、貴重な資料をご提供いただいた資料所蔵者の皆様や、ご協力いただいた関係機関の方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。
2023(令和5)年10月30日
藤沢市文書館長
民俗学者・丸山久子
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丸山久子は1909(明治42)年に長野県東筑摩郡笹賀村(現松本市笹賀)神戸で、村役人を代々務める家系の長女として生まれました。6歳の時に上京し、19歳の時に父が鵠沼に別荘を建てますが、別荘の近所に日本民俗学の開祖・柳田國男の弟で、元海軍大佐の松岡静雄が住んでいました。松岡は民族(文化人類)学に造詣が深く、自宅を神楽舎講堂と名付けて近所の若者に講義を行っていました。当時の丸山は国語教師を目指していたことから松岡の講義に通い、そして松岡のつながりを通じて柳田の門下に入りました。
丸山は1942(昭和17)年頃から柳田の助手的立場となり、柳田の仕事を目のあたりにしながら口承文芸の研究を進めました。そして、戦後、鵠沼の別荘に転居してからは、幹線道路から外れ都会の影響が比較的少ないと考えた遠藤地区を研究フィールドに加えます。その成果が1961年に刊行された『遠藤民俗聞書』で、藤沢市域を民俗学の方法論でまとめた初の研究成果になりました。以後、丸山は藤沢市教育文化研究所の研究員として、藤沢市の民俗学研究を主導する立場になりますが、以上の経緯もあり、遠藤地区は市内の民俗学研究を支える重要なフィールドに位置づけられるようになりました。
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丸山久子
1960年.
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丸山久子は戦後、鵠沼に転居し、終生この地で過ごしました。口承文芸の研究を進めつつ、地元の民俗に関心を深め、幹線道路から外れて都会の影響が比較的小さいと考えた遠藤地区の研究を、仲間とともに着手しました。写真は『遠藤民俗聞書』の編集にあたっていた頃のものです。
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笹賀村(現松本市笹賀)神戸の風景
2023年7月31日.
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丸山久子の出身地。松本盆地の中央、奈良井川左岸にあります。近世は神戸村で、明治時代に周辺5ヶ村と合同して笹賀村となり、1954(昭和29)年に松本市に編入されています。丸山家は戦国時代にこの地を領した丸山将監の流れをくみ、神戸村の村役人を代々務めた家系です。久子も6歳までこの地で過ごしました。
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丸山角之丞暉始
天保11(1840)年.
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丸山久子の高祖父。角之丞は丸山家歴代の通称で、暉始は諱ですが読みは不詳です。社会や文化に強い関心をもち、「子々孫々」への仕事と称して多くの見聞を記録として残しました。展示は56歳の自身を描いた挿絵です。天保の大飢饉を記録したID60文書「違作書留帳」(松本市文書館に移管)の末尾に描かれています。
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柳田國男
1946年.
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丸山久子の師。丸山とは柳田の弟・松岡静雄を介して知り合います。東京帝国大学卒業後、口承伝承や信仰などを研究し、日本民俗学の開祖として名を残しました。フィールドワークを重んじ、民具収集や話し言葉・方言を重視する学問姿勢は、丸山に大きな影響を与えました。写真中央が柳田、左から2人目が丸山です。
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柳田國男『炭焼日記』原稿
1945(昭和20)年5月31日.
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『炭焼日記』は柳田國男の戦中戦後の日記を1958年に公刊したものです。柳田は刊行にあたる浄書を丸山に託しました。展示箇所は5月25日の山の手大空襲で焼け出された丸山が、柳田のもとを訪ねてきた場面です。
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長照寺
2023年7月31日.
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松本市笹賀にある丸山家の菩提寺です。宗派は曹洞宗。1986(昭和61)年に丸山が没した後は、この寺にある両親の墓に納骨されました。
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ID60文書の里帰り
1999年9月2日.
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丸山久子文庫のうち、笹賀の生家に残されていたID60文書は1978(昭和53)年に緊急避難的に当館へ寄託されたもので、丸山は故郷に文書館ができた暁には移管を希望していました。1998(平成10)年に松本市文書館が開館したことで機は熟し、遺志に基づき松本市に移管されました。
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検地仕法
天保5(1834)年8月.
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天保5(1834)年に行われた神戸村近隣の係争地の検地を、丸山角之丞暉始が図示をふまえて記録したものです。検地の挿絵の存在から丸山久子文庫では最も知られる資料で、教科書にたびたび掲載されるだけでなく、2018(平成30)年には大学入試センター試験にも出題されました。松本市文書館に移管したID60文書に含まれます。
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往古の遠藤
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遠藤地区は谷戸地と台地が連なる起伏に富んだ地勢で、田を持つ「ヤト」「クボ」と、畑作地帯の「ハラ」とでは若干違うところがありますが、古くからその地勢を生かした農業を主産業としています。
地域によって土質や生育環境などの生産条件が異なりますし、水利が悪いと水田耕作は不可能です。作物には品種ごとに固有の性質があり、例えばナスやサトイモは連作が効きませんし、ソバは荒地でも育ちます。そのため、作物を適材適所に栽培する必要があります。
1879(明治12)年に編さんされた遠藤村の地誌によると、土質は施肥が必要な黒ボク土、水利が悪いため麦・サツマイモ・大根および桑や茶が主産品、春から秋は養蚕、冬は薪炭生産と機織りを並行して行ったと記録されています。
藤沢市教育文化研究所が1980(昭和55)年にまとめた『遠藤の昔の生活』にも、遠藤地区の田面積が一戸平均で1反半にとどまるため、米や野菜は自給用であり、換金作物として麦やサツマイモ、養蚕を主としていたとあります。このことは1924(大正13)年の販出農作物価格調査からも、数字的に裏付けを取ることが可能です。
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遠藤の情景
1972年.
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遠藤地区の地理的な特徴は、丘陵地と枝状に侵食された谷戸地が入り組んでいるところにあります。谷戸の湿地帯で自給用の稲作を行い、丘陵地ではサツマイモをはじめとする畑作が盛んでした。写真は琵琶島で、小出川の源流部にあたります。
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販出農作物統計
1924(大正13)年.
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神奈川県農会の調査による、1924(大正13)年に小出村から出荷された農作物の販売額統計です。麦やサツマイモ、養豚で生計を立て、米や野菜は自給作物だったことがわかります。なお、数値には堤や芹沢など現在の茅ヶ崎市域も含まれています。
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遠藤村地誌
1879(明治12)年2月13日編成.
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明治政府が計画した『皇国地誌』の編さんのため、1872年から1890年にかけて各村に調査を命じた、地理概要報告書の控です。黒ボク土で土質は中の下、畑作や養蚕、薪炭生産、機織が近世近代移行期の遠藤村の主産業であったことが記載されています。
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丸山久子のフィールドノート
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丸山が用いた1960(昭和35)年当時のフィールドノートで、遠藤の調査記録が残されています。展示の頁には屋敷の間取りを記録しています。図は清書のうえ『遠藤民俗聞書』の67ページに掲載されました。
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遠藤民俗聞書
1961(昭和36)年3月30日.
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丸山を代表者に、女性を中心とする5人でまとめた民俗調査報告書です。近郊農村に注目し、柳田民俗学の方法論で遠藤地区の1年を記録することを目標としたもので、藤沢市にとって実質はじめての民俗学の研究成果になりました。展示は丸山の蔵書で、表紙に蔵書印があります。
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年越し・年迎え
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1873(明治6)年の太陽暦導入後、遠藤地区の年中行事は、すべて新暦準拠で行われるようになりました。
12月8日はオコトハジメと言い、正月行事の始まりを意味します。この頃から農事の片付いた人は冬至までにススハキを行います。また、この日はヨウカゾウとも言い、一つ目小僧が家の悪事を帳簿につけて各戸を回るとの言い伝えがあり、メカイやソバスクイなど目の粗いかごを玄関や門に掛け、自宅にこもって退散を待つ風習がありました。
ススハキが終わると正月飾りや祭祀道具の準備をします。各家では12月25日頃から餅つきを行い、12月28日までに門松とシメナワを飾ります。また、遠藤地区にはトシガミサマとの風習があり、サンダワラに御嶽大神の幣束を立てて神棚に飾ります。カツノキで箸を作り神棚に供えますが、この箸はかつては正月三が日に雑煮を食べる際に用いました。
昔は日暮れが1日の終わりと考えられていたので、大晦日の夜は一年の締めくくりではなく、正月を迎えるものと位置づけられていました。年越しソバをミソカソバと言い、神々に供えます。この日は雨戸を閉めず、除夜の鐘が聞こえると集落のコミヤに初詣に出かけます。帰宅後は家族一同で福茶を飲み、年迎えを祝いました。
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ススハキ
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大掃除はトシガミサマを迎える儀礼でもあり、冬至までに行います。この日は家中の神様を外に出し、ススタケという竹箒で神棚を皮切りに家中を払い清めました。掃除が終わると神様を元の場所に祀り、白飯とソバを供えます。ススタケはセエトヤキのときに燃やしました。
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鏡餅づくり・ヌクモチ
1968年12月27日.
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正月用の餅は12月25~28日の間につきます。鏡餅やのし餅を家の神様すべてに供えるために大小十数組作ることから、一日中餅をつき続けました。最初につきあがった餅をとりわけたものをヌクモチと言い、餡やきな粉をかけて屋敷神に供えました。
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シメナワ
1968年採集.
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シメナワは「占め」、つまり張られた内側は神の占有地であることを意味する結界です。正月のシメナワは、トシガミサマをお祀りする祭場を意味します。その年に獲れた藁で編み、遠藤地区では12月28日に飾ってセイトヤキで炊き上げました。
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カツノキの箸
1965年採集.
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320
ヌルデはカツノキとも言い、「勝」のゲンを担ぐ木です。この木で太い箸を作って神棚に供え、正月三が日はその箸で雑煮を食べる風習がありました。しかし、箸として扱いづらいためお膳に供えるだけになり、やがて箸であったことも忘れられました。
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トシガミサマ
1968年採集.
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藤沢市内では年神様の依り代として、桟俵(俵の蓋)の中央を筒状に高く編み、そこに幣束を立てたものを御神体とする風習があります。遠藤地区では御嶽大神や芹沢の腰掛神社から配られる御幣を立て、これをトシガミサマとして1年間祀りました。
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正月・小正月
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遠藤地区では、元旦早朝に年男と呼ばれる跡取り息子が若水を汲み、雑煮の仕度をします。出来た雑煮は野菜や切り餅とともに家の中に祀る神々にも供えました。また、米一升を持ち、寳泉寺にネントウノアイサツとして参拝します。4日はテラノネントウノアイサツと言い、寳泉寺の僧侶が大般若のお札を配るため家々を回るので、その日の朝に門松を外します。そしてウナイゾメと言い、恵方に向かって一鍬うない、外した門松の枝と米や餅を供えます。これが仕事始めの儀式になります。
1月15日前後は小正月と言い、豊作を願う予祝的な祈願を行います。14日にケズリカケやカユバシラと呼ばれる祝い棒をつくり、トシガミサマに祀ります。また、米粉の団子を供えるとともに、繭に見立てた団子を木の枝に刺したマユダマを座敷に飾りました。夕刻にセエトヤキと呼ぶお焚き上げを行います。翌朝、小豆粥を作り、祝い棒を用いて豊凶を占い、この棒で果樹を脅しながら叩くナリキゼメを行いました。
2月1日をオサメノツイタチを言い、正月行事の終わりとして汁粉を作ります。8日はコトオサメと言い、一つ目小僧が道祖神に預けた帳簿を回収するため集落を回ると言われました。セエトヤキを道祖神の前で行うのも、この帳簿を一緒に焼いて帳消しにする意味が込められています。
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一本カザリ
1961年2月8日.
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家の神様や小屋に飾る簡易版のシメナワで、今日の正月の玄関飾りの原型と言えるものです。一本の縄を編む途中で藁を3か所挟み、挟んだところに幣束を下げます。その作りから三手カザリとも言いました。
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神棚
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320
正月の神棚を写したもので、中央が祭壇にかけたシメナワです。左側に束ねたナワはクミダレと言い、供物を吊るす代わりとして掛けます。さらに神饌として新巻鮭を吊るしましたが、流通が発達する以前は生魚や海藻が用いられていました。
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雑煮
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遠藤地区では跡取りを意味する年男が、若水を使って正月の雑煮を用意していました。具はサトイモと大根で、餅は角形の切り餅を入れます。神棚のトシガミサマへは味付けをせず、餅も火を通さずに供えました。
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ウナイゾメ
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145
1月4日の寳泉寺の僧侶が檀家を回るテラノネントウノアイサツの前に外した門松を持って田畑に行き、門松とオサゴ(米)や餅を供え、恵方を向いて一鍬うなって五穀豊穣を祈りました。仕事始めの儀式で、これが済むまで田畑に出入りができませんでした。
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堆肥に立てたケズリカケ
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155
ウナイゾメにあわせて割竹の柱とケズリカケを堆肥に立てましたが、丸山らの調査時にはすでに古式としてほとんど見かけなくなったとされます。
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ナリキゼメ
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粥占いを終えた後、占いで用いた祝い棒で「ナリモソナリモソ、成るか成らぬか、成らねばこの木をぶった切るぞ」と脅しながら果樹を叩き唾を吐きかけます。果樹を驚かせることで豊穣を祈りました。
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カユバシラ
1965年採集.
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320
1月14日にヌルデかニワトコの木を伐り、小正月の祝い棒を作ります。カユバシラには装飾性はありませんが神の依り代とされており、2本一対で神棚に供えます。15日に粥占いと称して小豆粥をかき回し、粥のつき具合でその年の豊凶を占いました。
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ケズリカケ
1969年採集.
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320
これも粥占いのために1月14日に作る祝い棒です。一対のヌルデやニワトコの枝に、上下2か所の皮を削いで穂に見立てて広げます。上は十字に割ってセエトヤキの団子と鏡餅の欠片を挟みました。
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「だいのこんごう考」原稿
1965(昭和40)年7月.
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320
カユバシラやケズリカケの素材である、ヌルデやニワトコの木を、遠藤地区ではまとめてダイノコンゴウと呼びました。丸山は種の違う木が同一名で混同されている点に着目し、各地における粥占いやナリキゼメを比較しながら、祝い棒を用いた信仰について考察しています。
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マユダマ
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158
養蚕の予祝行事で、質の良い繭がたくさんとれることを願い、大ぶりなカタギの枝にマユダマと呼ばれるダンゴを飾り付けました。養蚕が盛んな戦前は白いダンゴと蚕種紙で飾りましたが、戦後は着色したダンゴやミカンなども刺すようになり、華やかさが増しました。
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トッケエダンゴ
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320
1月14日夕方のお焚き上げをセエトヤキと言います。道祖神のある辻にススタケや正月飾りを集めて燃やし、年神様を送ります。その火で焼いたダンゴは風邪よけの縁起物とされますが、遠藤地区には1枝で3個を焼き、うち2個を交換するトッケエダンゴとの風習がありました。
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メカイ
2003年3月1日採集.
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正月行事のはじめと終わりである12月8日と2月8日をヨウカゾウと言い、一つ目小僧が家の悪事を帳簿につけて回ると言われました。そこで、家の入口に目がたくさんあるものを掲げて退散を祈りました。一般的にはメカイ(野菜を洗うカゴ)を長竿に掛け、軒に立てる家が多かったようです。
240
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ヨウカゾウ
1969年2月7日.
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ヨウカゾウではメカイ以外にも、ソバスクイなど目の粗い容器を掲げることもありました。写真は大庭地区で撮影されたものです。
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冬休みの宿題と調査カード
1965(昭和40)年12月.
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丸山が属した藤沢市教育文化研究所は、1965年度に学校と連携した民俗調査を試みました。中学校には夏休みの宿題として盆行事、小学校には冬休みの宿題として正月行事のアンケートを行い、聞き取り調査の対象者を絞り込んでいきました。
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春の農耕儀礼
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旧暦では節分が冬と春の境目で、かつては一年の境とも考えられていました。旧暦2月最初の午の日に稲荷を祀る「初午」、旧暦2月最初の亥の日に山から下りてきた田の神を迎えるため、神前にボタモチを供える「春亥の子」も、こうした旧暦の名残でした。
春分の最も近い戌の日を「社日」と言います。土地の守護神である地神を社と言い、五穀の種子を祀り豊作を祈る日とされます。この日は農作業を休み、一家の主は地神講と称して寄合をしました。そして、農事の情報交換や共同作業の相談などを行っていたのです。
4月に入るとコメ作りの準備が始まります。種籾は神前や床の間に供えて豊作を祈り、発芽させて苗代に蒔きます。遠藤地区では余った種籾を祝い唄にあわせて臼で搗く「焼米つき」との行事がありました。出来た焼米は家の神様やカユバシラに挟んで田の神に供えました。
5月は野菜の植え付けや麦刈り、養蚕に追われる、1年で最も多忙な時期で、繭を商人に引き渡すとケイコイワイと称してカツオを1本買って祝いました。6月にこれらが一段落すると田植えを始め、終わるとサナブリモチと称するアンコロ餅がふるまわれました。集落全体の田植えが終わると田植え正月の触れが出て、仕事を1日休みました。
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初午
1961年2月6日.
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2月の最初の午の日を初午と言い、生産の神である稲荷を祀ります。油揚げとともに赤飯を藁づとに入れ、稲荷講と称して寄合を行い会食しました。
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地神講
1965年3月24日.
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春分・秋分に最も近い戌の日を社日と言います。社日は土地の守護神を祀る日とされ、土を動かしてはいけないとの禁忌があります。そのため、当日は農作業を休み、当番の家に集まって地神講と称する寄合を行い、農事の情報交換や共同作業の相談を行いました。
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地神尊像
近世~近代
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98
地神とは地主神のことで、農業神として祀られました。展示の掛軸の作者や年代は不明ですが、盛花器と矛を持つ二手の地天の姿は、西俣野の地神坊神礼寺(現在は廃絶)が発行した堅牢地神の印札の影響が見られます。
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社日講積立金連名帳
1947(昭和22)年3月20日.
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92
地神講(社日講)の帳簿には、講の構成員や会合にかかった費用などが記載されました。また、講には頼母子講の性格もあり、共食の席上で抽選を行ったことがわかります。
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堀さらい
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4月8日頃に堀に沿う田の耕作者で申し合わせて田入水を引く堀の補修を行います。流れの上流からそれぞれのグループで作業を行い、終わると一同でお茶やお酒を飲みました。
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焼米つき
1961年.
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直播栽培の時代は水田、移植栽培に移行してからは苗代に種を蒔き終えた祝い行事で、余った種籾を田の神にささげる農耕儀礼です。せいろで蒸した種籾を煎り、臼でついて皮をむいた焼米を田の水口に供えます。写真は丸山らの調査のために再現されたものです。
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焼米つき歌詞
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焼米つきは祝い唄を歌いながら、杵3本で臼の縁を叩いて拍子をとって籾をつきます。唄は地区によって異なりますが、おめでたい言葉が並びます。
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田植え
1969年6月.
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春先は農事が多忙なうえ、先走って田植えをするとその田に害虫が集まってしまうことから、6月25~27日に村一斉に田植えを行いました。稲を植え終えると春の農事が一段落するのでサナブリと言って祝いました。写真は大庭地区の田植えです。
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盆行事
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盆は遠藤地区では正月と並ぶ大きな祭祀でした。
8月1日を釜蓋朔日と言い、地獄の釜の蓋が開く日と言われています。この日にドヨウモチという餅をついて仏前に供えます。13日の朝に墓掃除を行いますが、この日は仏様の足を切るといけないとして草刈りを避けます。帰宅後は盆棚を作り、祖霊を祀る準備をします。午後はオタナギョウと言い、寳泉寺の僧侶が檀家を訪ねます。夕方にキュウリやナスを刻んだアライアゲを持って墓参りをし、家の外に作った盆ツカにキュウリ馬とナス牛を供え、火を焚いて祖霊を迎えます。新盆の家は8月いっぱい提灯を下げ、親族はカケブクロを贈ります。いただいたカケブクロはまとめて寺に納めました。
8月16日は地獄の釜の蓋が再び開く日と言われ、盆の終わりを意味します。盆ツカに火を焚いて祖霊を送り、盆棚を片付けました。
ところで、遠藤地区は盆踊りが盛んな地区で、8月10日を過ぎると毎晩踊っていたと言われます。遠藤地区の盆踊りはササラと太鼓を持ち、盆唄を歌いながら輪になって踊るのが特徴でした。しかし、関東大震災で一度途絶え、丸山らの民俗調査を機によみがえった経緯があります。いわば、丸山はすんでのところで消えかけた風習を呼び起こしたのです。
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盆ツカと迎え火
1981年8月.
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祖霊を迎えるための塚で、門口に四角に土を盛り、キュウリ馬とナス牛、アライアゲと呼ばれるナスとキュウリの刻み物を供えます。ツカは柱を立てたり階段をつけるなど各家で形態が異なります。そして13日夕方に迎え火、15日夜か16日早朝に送り火をツカの脇で焚きます。
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盆棚
8月14日.
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祖霊を迎えてお祀りする棚で、四斗樽2個を台として戸板を置き、ゴザを敷いてお供え物と位牌を並べます。後方に十三仏の掛軸を掛け、四隅に青竹を立てて柱とし、柱の間に縄を張りホオズキや粟の穂、サトイモなどを吊るします。棚の下の小皿は無縁仏へのお供え物です。
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盆の赤飯
1961年8月.
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8月15日は祖霊が帰りの土産を買いに行く日とされ、朝の赤飯を握り飯にして盆棚に供えます。遠藤地区では昼に盆棚から下げ、家から出さずに家人が食べることになっていました。
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カケブクロ
1967年採集.
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新盆の家に親族が贈るお見舞いで、さらしの袋に1升4合(約2kg)の米を入れ、草履、扇子、半紙、扇子などが麻縄で結びつけられたものです。集まったカケブクロは盆の前か施餓鬼の日である8月22日に寺へ奉納します。
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ササラ踊り
1961年8月.
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遠藤地区の盆踊りは15~20人位の輪踊りで、やぐらを立てず、太鼓を持ったあげ手が中央で音頭を取ります。輪の踊り手は太鼓やササラを持ち、盆唄を歌いながら手拍子で踊るのが特徴でした。写真は藤沢市の無形文化財指定時に記録目的で演じられたものです。
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ササラ
1960年代.
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遠藤地区のササラ踊りは編木によるビンササラを用います。編木はススタケ36本で作られ、これを振り合わせてお囃子にしました。
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採譜盆唄歌詞
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遠藤の盆唄にはさまざまなバリエーションがあります。基本は七七七五調で歌われますが、歌詞にアドリブの要素があり、丸山が採録したのはあくまで一部に過ぎません。
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藤沢市遠藤の盆おどりについて
1965(昭和40)年.
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遠藤地区は関東大震災の被害が甚大で、復興が優先されたため、盆踊りが途絶えてしまいました。これが丸山の調査をきっかけに復活し、1965年には藤沢市の無形民俗文化財に指定されました。展示は丸山による推薦書です。
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稔りの秋
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立春から210日目にあたる9月1日頃を二百十日と言い、台風の厄日とされています。これに先立つ8月23日にカゼマツリを行い、お礼を田に刺して無事を祈ります。旧暦8月15日の十五夜と旧暦9月13日の十三夜には、収穫を前に豊作を願ってお月見をします。
9月になると稲の花が咲くので田に水を入れます。そして花が咲き終えると水を抜きます。また9月は秋の養蚕や畑の収穫、出荷が続きます。9月15日は御嶽大神の例祭日ですが、養蚕が盛んな時代は日延べすることもしばしばだったと言われています。
秋の「社日」に地神講を行い、10月上旬に麦を蒔きます。10月15日前後に蒔き終えるとマキアゲイワイと称してソバや白米を供えます。
11月に入るといよいよ田の収穫が始まります。上旬から刈りはじめ、旧暦10月最初の亥の日に「秋亥の子」を祝います。この日は田の神が山に帰る日とされ、新穀でボタモチを作って供えます。収穫を終えると各家でカリアゲイワイを行い、赤飯かボタモチを神棚にささげ、鎌やイネカリブネにも供えます。イネコキが終われば赤飯か白飯をセンバコギに供えました。そして、旧暦10月20日に秋のエビス講を行い、恵比寿と大黒天に一年の稔りを感謝しました。
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カゼマツリ
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立春から数えで210日目にあたる9月1日頃を二百十日と言い、台風の厄日とされています。これに先立つ8月23日にお宮で祈願し、お札を田に供えて無事を祈りました。
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お月見
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旧暦8月15日の十五夜と、旧暦9月13日の十三夜は豊作を願ってお月見をします。遠藤地区では団子とススキのほか、サトイモの味噌汁と白飯、芋や栗、そして豆腐を1丁供えるのが特徴でした。
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ハザカケ
1971年11月.
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刈ったばかりの稲穂は水分が多く、籾の変質を防ぐため乾燥させます。乾燥方法にはハザカケとイナブラ(野積み)がありますが、ハザカケにすると質の良い藁ができます。農家にとって藁は、俵や生活用具、祭祀道具などに用いる大切な材料でした。
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イネコキ
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現在はコンバインが普及し、乾燥と脱穀の順序が入れ替わりましたが、かつては干し終えた稲穂から脱穀させる工程が必要でした。写真はイネコキによる手動脱穀を再現したものですが、丸山らの調査時には、すでに動力脱穀機に置き換わっています。
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おわりに
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丸山らが記録した遠藤地区の年中行事には、社会や産業構造の変化で廃れたものも多く含まれています。ですが、今日の我々が何気なく行う歳事には意味があり、また、人手のかかる農作業を維持するには、こうした歳事によってムラや一族の結束を強めたものと考えられます。
農業に関する知識は、一般的には経験則として伝承されていました。地神講をはじめとする寄合は、こうした知識の交換の場でもありました。また、農業は自然相手の生業につき、年による豊凶は避けられません。今日のように自然科学が発達する以前は、天候や病害虫の発生などは神任せにならざるを得ず、それゆえ日々の生活と信仰は深く結びついていたことがわかります。
こうした人々の「願い」を記録するのは、歴史学の一分野ともされる民俗学の役割です。藤沢市は戦後の都市化にともなう変化が激しく、多くの年中行事が行われなくなりつつありますが、柳田民俗学の方法論を学んだ丸山によって、ぎりぎりの所で体系的な記録として残すことができたのです。