2011年3月11日に発生した東日本大震災は各地に大きな被害をもたらしました。東海地震や南関東直下型地震などが予想されるなか、首都圏に大きな被害をもたらした地震として1923(大正12)年の関東大震災が注目されています。
関東大震災は東京や横浜で大火災となり、死者・行方不明者約10万人と未曾有の被害を与えた複合災害としても知られています。都市化が進む今日において教訓とすべき事柄が多い地震ですが、藤沢の被害はあまり知られていないのが実情です。
今回の展示は、文書館が所蔵する各種記録を中心に、関東大震災の被害状況について明らかにしようとするものです。当時の被害状況を確認することで、今後起こりうる被害も予見できるようになり、より高度な対策を取ることも可能になります。当時の人々の動きは地域防災にも係わる問題でもあります。東日本大震災1周年を前に、今一度、歴史の教訓を参考にされてはいかがでしょうか。
最後に、貴重な資料をご提供いただいた市民や関係機関の方々に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
2012年1月16日
藤沢市文書館長
藤沢の震災被害
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藤沢市域は大正12年9月1日に発生した関東大震災の震源に近く、大きな被害を受けました。
例えば、本町では家屋の9割が倒壊し、鵠沼では引地川をさかのぼった津波で内陸部まで浸水しました。
しかし、東京などに比較すると、死傷者は少なくすみました。これは、藤沢市域では火災の被害を免れたこと、また、台地部での被害が小さかったことなどによります。
3161
関東大震災の震源域と六大余震の震源
1923年(T12)
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320
最新の研究によると、関東大震災の震源は小田原から三浦半島にかけての広い範囲で、さらに大きな余震が続き5分近く揺れたことがわかっています。(武村雅之『関東大震災』鹿島出版会より)
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3123
藤沢市域震災被害統計
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320
藤沢市域の関東大震災の被害は各地域で差があり、渋谷村など北部の倒壊率が低くなっています。(神奈川県統計書』より集計)
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3162
「震災応急測図原図」による藤沢の被害状況
1923年(T12)
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320
陸軍は主要道路沿いを緊急に調査しました。藤沢は南部地域のみが調査対象でしたが、各地区の被害が詳細に記録されています。(陸地測量部作成の四分割原図を再編集・市川勝典氏作図)
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3126
各地における火災被害状況
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320
当時の藤沢は農村的な慣習で昼食時間が早かったことや、火を扱う商売が多くなかったため、大火を免れます。(各体験記より編集)
226
3153
川岸町の被害
大正12年9月
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320
本町の川岸町では建物が境川に崩れて13名が亡くなりました。道路破壊もひどく、特に被害の大きな地区でした。(『藤沢町大震災写真帖』)
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3154
七里ヶ浜海嘯の跡
大正12年9月
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320
関東大震災では20分で津波が襲いました。藤沢市域にも被害がおよび、江之島桟橋が流され行方不明者が出ています。 (『神奈川県震災誌』)
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3165
関東大震災津波の鵠沼地区浸水図
1923年(T12)
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320
藤沢市域の津波は川をさかのぼり内陸深くに侵入しました。引地川は高根・八部や地蔵袋まで、境川は川袋地区まで流れ込んでいます。(鵠沼郷土資料展示室・内藤喜嗣氏調査提供。陸地測量部大正10年測量版1/25000地形図「江の島」に市川勝典氏加筆)
226
3163
村岡村震災被害状況図
1923年(T12)
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169
村岡地区の家屋倒壊状況を復元した地図です。川沿いで大きな被害がありますが、高台の被害が少なく、地盤の違いによる差がありました。(渡辺光男家文書「戸数割住家坪数台帳」より作成。市川勝典氏作図)
240
3164
(六会村円行震災被害図)
1923年(T12)
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169
現在の湘南台地区の被害状況を復元した地図です。堤防が崩壊し、ところどころの田畑が水に浸かりました。(小泉敬助家文書「震災ニ因ル被害地免租年期申請書」より作成。市川勝典氏作図)
240
3124
農産仕訳簿
大正12年9月1日
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320
西俣野の農家の日誌にある震災記です。昼食を終えたところで地震に襲われ、母屋がこわれてしまいます。(中丸隆雄家文書)
233
3125
震災における金子家の状況報告
大正12年
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320
震災時の藤沢町長・金子角之助の挨拶状です。角之助は外出中でしたが、自宅に小一郎(後の藤沢市長)ら家族が居り、間一髪で難を逃れます。(金子家文書)
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3127
噫九月一日
大正15年9月1日
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藤沢本町の俳人、永瀬覇天郎の色紙です。震災の恐怖をふりかえり、生き延びたことを天の恵みととらえます。(廣瀬宣昭家文書)
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震災後の人びと
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震災後の人びとは、相次ぐ余震のなかで避難を余儀なくされ、地域住民の協力の下で生活を維持しなければなりませんでした。
当時の藤沢は農村地帯で収穫物を備蓄していたので、食糧にはさほど苦労しませんでしたが、飲み水の確保が問題になりました。
また、東京や横浜で起こった朝鮮人暴動の噂は避難してきた人々ともに藤沢にも広まり、各地区に自警団が組織されるなど緊張が強まりました。人心不安から治安状況が悪化するなか、藤沢に到着した甲府の歩兵第49連隊の駐屯により、人々は落ち着きを取り戻していきました。
3130
震災後の物資供給事情
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震災当時の藤沢は農村に備蓄があり、食糧に不自由しませんでしたが、栄養が偏り江の島で死者が出ます。 (各体験記より編集)
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3131
京都市義損品配給表
大正12年9月
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171
全国各地から支援物資が届けられました。これは京都から六会村に送られた食糧の分配を記した表です。(個人蔵)
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3132
非常徴発令ニ関スル告示
大正12年9月5日
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320
震災で生活必需品が不足し、政府は全国から食糧などを集めました。村岡村は被災地ですが、供出の対象地にもなりました。(個人蔵)
234
3166
(井戸と電気の状況図)
1923年(T12)
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169
地震後、各地で井戸がにごって飲用できなくなりした。また、当時の電気は市域の南北で供給会社が異なり、復旧状況に差がありました。(水関係は各体験記、電気の復旧日は『神奈川県震災誌』による。市川勝典氏作図)
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3134
震災により全滅した井戸の復旧依頼
大正12年11月8日
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180
当時の藤沢は井戸水を用いましたが、多くは震災で使えなくなりました。資料は大家に井戸の復旧を依頼したものです。(牧野屋平野家文書)
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震災被害を知らせる電報
大正12年9月18日
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芥川龍之介の義兄・葛巻義定宛の安否電報です。タバタは芥川龍之介家で、無事と伝えています。(葛巻文庫)
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3129
芥川家の無事を知らせる通知
大正12年9月
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150
芥川龍之介が住む東京・田端は焼失を免れました。甥の葛巻義敏は家を失い芥川家に身を寄せます。(葛巻文庫)
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3155
応急措置を施した蔵
大正12年9月
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320
倒壊を免れた家も破損がひどく、そのまま使用するには危険なものもあり、支え棒などで補強しています。(廣瀬宣昭家文書)
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片付作業
大正12年9月
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320
重機がない当時、瓦礫の撤去は人手に頼るもので、町内会など近隣住民同志の協力が不可欠でした。 (廣瀬宣昭家文書)
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3156
西坂戸「ユノミバ」
大正12年9月
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320
藤沢町の人びとは「ユノミバ」を設けて、東海道を歩いて避難した人びとへ、水や食糧を提供しました。(『藤沢町大震災写真帖』)
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3136
各地区に広まった噂と治安の確保
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320
余震も続き不安が収まらないなか、人びとはデマで混乱しました。戒厳令が公布され、駐屯した軍を見てようやく安心感を得たのです。(各体験記より編集)
226
3133
日用必需品販売者ニ対スル警告
大正12年9月7日
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233
震災による物資の不足に乗じて暴利を貪る商人に対し、被災地での騒動を恐れた政府は厳しく取り締まりました。(小泉浩家文書)
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「朝鮮人騒ぎ」伝播ルート
1923年(T12)
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169
震災に乗じて植民地支配に不満を持つ朝鮮人が暴れたとの噂が横浜で立ちます。噂は各地に広まりますが、避難する人の動きと一致しています。(今井清一『横浜の関東大震災』参考。到着時間は各体験記による)
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大正十二年四月 記録
大正12年9月2日
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自警団は、青年団や消防団、在郷軍人から組織されました。これは御所見村青年団打戻支部の日報で、3
日3晩不眠で警備にあたります。 (御所見青年会打戻支部文書)
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復興とその影響
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震災で家屋の9割が倒壊した本町ですが、翌年にはほぼ震災前と変わらない町並みにまで再建することができました。また、藤沢市域の転入人口が増加に転じ、本格的な都市化がはじまりました。
その一方で、震災復興には資金が必要で、各市町村は長期にわたって重い負担に苦しみました。民間経済も、藤沢に本店を持つ関東銀行が破たんするなど、大きな打撃を受けました。
3120
震災記念式挙行通知状
大正14年8月26日
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164
遭難者の追悼とともに教訓を伝えるため、各地で慰霊祭が行われ、震災の戒めとされました。(山本家文書)
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震災後急ニ発展セル藤沢南仲通及東館(神田写真帖)
大正13年
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従来の藤沢は宿場町だった本町が中心地でしたが、転入人口の増加で、藤沢駅北口周辺の開発が進みます。(『藤沢町大震災写真帖』)
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58.復興の東坂戸付近
大正13年
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320
震災から1年後の本町の様子です。復興にあたって道路が拡幅されたことがわかります。
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(笹久保の高台移転)
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320
現在、慶応大の看護医療学部がある笹久保は地盤が弱く、地震による地割れや陥没のため背後の高台に集団移転します。(地形図および復興記念碑文面より作成。市川勝典氏作図)
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石碑・過去からのメッセージ
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関東大震災は記憶のなかに深い傷跡を残し、当時の人々はその教訓を目に見える形で残すことにつとめました。藤沢市内でも各地に震災碑が残されており、被害を今に伝えています。
これら石碑の文面は、漢文などで書かれているため読みにくいものも多く、深く読まれる機会が少ないのが実情です。しかし、碑文には地域の被害や復興への想いが書き記されているのです。
3122
藤沢市内の震災関係碑
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169
藤沢市内にある震災関係碑の内容です。
240
3160
藤沢市内の震災関係碑
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169
藤沢市内にある震災関係碑の位置関係図です。
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3141
①宮原寒川社大震災記念碑
1925年9月
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149
宮原の寒川社にある記念碑です。総高は192㎝。陥没や道路破壊などの被害を伝えます。(2000年代撮影)
240
3142
②遠藤御嶽神社大震災記念碑
1926年9月
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175
遠藤の御嶽神社にある記念碑です。総高は196㎝。余震で再び被害をうけ、3年目にして復興がはじまりました。(2000年代撮影)
240
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③笹久保稲荷復興碑
1927年2月壬午日
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180
遠藤の笹久保稲荷にある復興記念碑です。総高は191㎝。集落の高台移転の経緯について記されています。(2011年11月8日撮影)
240
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④亀井神社大震災復興記念碑
1935年4月
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亀井神社の復興記念碑です。総高は 316㎝。地域の復興まで10年かかったことと、大震災の教訓を伝えています。(2000年代撮影)
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3145
⑤今田鯖神社用水堰改築記念碑
1926年11月
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180
湘南台の鯖神社の記念碑です。総高は175㎝。震災で堰がこわれ、大正15年にコンクリートで復旧しました。(2012年1月15日撮影)
240
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⑦大庭神社鳥居建立の由来碑
1951年9月8日
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178
大庭神社の鳥居の由来記です。総高は155㎝。震災で倒壊した後、再建は戦後までかかったことを伝えます。(2000年代撮影)
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⑧片瀬上諏訪神社震災記念碑
1924年9月1日
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320
片瀬の上諏訪神社にある記念碑です。総高は175㎝。慰霊のほか、生き延びても生活が厳しかったことを伝えます。(2000年代撮影)
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⑨片瀬龍口神社「至誠通神」
1928年8月
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片瀬の龍口神社の記念碑です。総高は275㎝。震災で裏山が崩れ全壊し、寄付で再建したことが記されています。(2000年代撮影)
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⑩小塚荒神神社復興碑
1924年9月8日
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180
村岡・小塚の荒神神社の記念碑です。総高は125㎝です。(2012年1月15日撮影)
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⑪渡内日枝神社大震災記念碑
1923年9月1日
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180
村岡・渡内の日枝神社の記念碑です。総高は60㎝です。(2012年1月15日撮影)
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⑫砂山観音鳴呼九月一日碑
1929年9月1日
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藤沢の砂山観音の慰霊碑です。総高は175㎝。遊行寺の尊光上人の書で、「鳴呼」は泣き叫ぶという意味です。(2000年代撮影)
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⑭東久邇宮師正王遭難碑
1923年9月1日
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180
震災で遭難死した皇族を悼む慰霊碑です。総高は230㎝。現在は鵠沼のオーシャンプロムナードにあります。(2012年1月15日撮影)
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